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信長公ならどうする?
Cancan /
2016-01-10 20:48:00
No.1190
豊臣秀吉がものの見事に失敗した朝鮮出兵ですが、『あれが仮に織田信長公なら結果がどうなったか?』というのは、よく議題に上る話です。
すなわち、本能寺の変がなく信長公がもっと長生きしておれば、当然大陸への出兵がなされ、朝鮮併合がなされたか否か、と。
一昨年の『SAPIO』にも同じ仮説を立てている人がいましたが、執筆者が落合信彦氏だったので一目見ることさえやめました。
日本史にはまるで詳しくない私が言うのも何ですが、当時の明朝の兵力を鑑みて信長公は恐らく断念したのではないかと思うのですが、いかがでしょう?
しかも太閤殿下が出兵を決めた時は、一説によるとかなり正常な判断力を失っていたとも聞きます。信長公にとっても殿下にとっても、強大な明軍の力とそれによって弱まる日本国内での統治力を思えば、一種の賭けに近い政策と言えましょう。
もっとも、織田信長公が朝鮮征伐に出る時は、徳川やその周辺の大名全て半島へ行かせるのは明白ですから、『大陸で苦戦=国内での地位低下』とはなりにくいかもしれません。
当時の明朝の強さはわかりかねます。1644年に清朝ではなく、農民指導者利自成によって倒され、その後すぐに清軍に取って代わられるのは、日本人的な感覚ではなかなか理解できないのですが…。
Re: 信長なら、出兵しなかったと思います
ミラクル3 /
2016-01-10 23:10:00
No.1192
こんばんは、Cancanさん。
信長なら、出兵をしなかったと思われます。天下を完全に統一したならば、国内の充実に注力したでしょうね。
秀吉の晩年は正常な判断ができなかったというのは、有力な説ですね。特に2度目の出兵は愚行でした。
確か、明朝は、中国王朝で最も長く続いた王朝だったように思います。明が本当に強かったのは初期の頃で、以降は、異民族の侵入とかに苦しみました。
朝鮮出兵時の明朝の強さはわかりかねますが、日本軍にとっては完全アウェイですから、勝ち目はなかったと思われます。
李自成は、明の弱点をよく知っていたのでしょう。でなければ、明を倒すことはできなかったはずです。
それでは、この辺で失礼します。私も、落合信彦氏は嫌いです。
Re: 大清帝国
Cancan /
2016-01-11 20:09:00
No.1195
家康公の時はそんな余裕はなかったにせよ、徳川幕府が朝鮮に興味を示さなかったのは、相手が大清帝国だからでしょうね。
というか、逆に清国の方が我が国に手を出さなかったことの方が不思議です。確かに、愛新覚羅ヌルハチ、ホンタイジ、順治帝の時はいざ知らず、康熙帝、雍正帝、乾隆帝の三代の治世なら日本侵攻もあり得たのではないですか?
ただ、向こうもそれなりの情報を持っており、とりわけ元代の失敗(1274年と1281年)に関してはかなりの文献があったはずで、そこを精査した結果やめたのかもしれません。
実際に侵攻されていたら、どうなったかわかりませんが、日本・満州双方に多大な被害が出ていたでしょう。もっとも、大清帝国の造船技術が優れておれば、このように気楽なことは言っていられませんね(苦笑)
日清戦争の光緒帝期は欧米列強に侵されるなど、国が傾いている時期でした。だから勝って当たり前…ではなく、斜陽期でさえあれだけ強かったのですから、三帝の時代であれば恐らく我が国も勝ち目がなかったように思います。
幕府もまた、半島を巡って高くつく冒険に走らなかったのは賢明だったと言えましょう。その代わり鎖国が…。
Re:三賢帝の時代は、手も足も出なかったはずです
ミラクル3 /
2016-01-11 21:03:00
No.1196
こんばんは、Cancanさん。
家康は、豊臣家を滅ぼすに注力しましたからね。それに、家康も、もう高齢でしたし。
徳川幕府が朝鮮に興味を示さなかったのは、バックに清国が存在したからだと思います。特に三賢帝の時代は、手も足も出なかったはずです。
清国が日本に手出しをしなかったのは、漢人を抑えることとロシアとの関係を良くすることで精一杯だったからでしょうね。
あの元でも勝てなかったわけですからね。無用な侵略は避けたのかもしれません。
実際に清国が侵攻していたら、どこが戦場になったでしょうか? 時代にもよって数は違うでしょうけど、日本に多大な被害をもたらしたことは確かだと思われます。
清国の末期はボロボロでした。それでも、よく日清戦争で勝てたものです。
幕府は鎖国体制を敷いてましたからね。半島に興味はなかrったのでしょう。
それでは、この辺で失礼します。鎖国は、現在に至るまでの負の遺産ですね。
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すなわち、本能寺の変がなく信長公がもっと長生きしておれば、当然大陸への出兵がなされ、朝鮮併合がなされたか否か、と。
一昨年の『SAPIO』にも同じ仮説を立てている人がいましたが、執筆者が落合信彦氏だったので一目見ることさえやめました。
日本史にはまるで詳しくない私が言うのも何ですが、当時の明朝の兵力を鑑みて信長公は恐らく断念したのではないかと思うのですが、いかがでしょう?
しかも太閤殿下が出兵を決めた時は、一説によるとかなり正常な判断力を失っていたとも聞きます。信長公にとっても殿下にとっても、強大な明軍の力とそれによって弱まる日本国内での統治力を思えば、一種の賭けに近い政策と言えましょう。
もっとも、織田信長公が朝鮮征伐に出る時は、徳川やその周辺の大名全て半島へ行かせるのは明白ですから、『大陸で苦戦=国内での地位低下』とはなりにくいかもしれません。
当時の明朝の強さはわかりかねます。1644年に清朝ではなく、農民指導者利自成によって倒され、その後すぐに清軍に取って代わられるのは、日本人的な感覚ではなかなか理解できないのですが…。