ADVENBBSの過去ログを表示しています(閲覧専用)
朝日新聞 埼玉版より
管理人 / 2008-06-23 13:16:00 No.13193
野球びと 高校球史90年 ?
第3章 80年代から
初陣 いきなり4強
無名の浦学 全国区に

稲の緑が広がる見沼田んぼや埼玉スタジアムの白い屋根。その近くに浦和学院(さいたま市緑区)はある。春と夏の甲子園に県内最多の15回出場し、2位の上尾(7回)を大きく引き離す。10人以上のプロ選手を輩出し、全国から有力選手が門をたたく。
野球部のグラウンドの道を挟んだ向かい側にゴルフ練習場がある。練習場には、野球部前監督の和田昭二の姿があった。今はゴルフ部の顧問だ。
和田は山口・岩国商から日体大に進んだ。卒業後の81年に浦和学院の体育教師となり、野球部の練習を手伝うようになった。
浦和学院は78年創立の私立校だ。「特色ある学校作り」を掲げ、クラブ活動に力を入れて生徒を集めた。野球部もしかり。ただ、当時は1回戦を勝ち抜くのが精いっぱいだった。
84年、上尾を春夏6回の甲子園に導いた野本喜一郎が監督に就くと、鈴木健(元西武など)ら有力選手が入学。状況は一変した。「3年で甲子園に連れて行く」。2年後の86年夏、野本は約束通り、浦和学院を甲子園に導いた。
けれども、埼玉大会は病院のベッドでテレビ観戦となり、全国選手権大会の開幕を見届けた夜、息を引き取ったという。当時27歳の和田が監督代行として指揮を執った。ベンチには野本の遺影が置かれた。
和田は気負いはなかった。「怖いもの知らずだった」。1回戦で大阪代表の泉州(現:飛翔館)を10−3で下して勢いに乗り、ベスト4まで勝ち進んだ。だが、準決勝で松山商(愛媛)に3-14と完敗。6回に一挙10点を失った。
「勢いが止まった時、全く手を打つことができなかった。経験不足だった」。野本と比べたマスコミに「あの監督では勝てない」とも言われた。
「何としても、来年は甲子園に帰る」と必死になった。翌87年、夏の甲子園に再び戻ってきた。だが、初戦でエース伊良部秀輝(元米大リーグ・ヤンキースなど)らの尽誠学園(香川)に2−5で敗れた。
以後、甲子園には「あと一歩」届かないまま、4年後の91年に監督を退くことになった。やり残したことがあった。でも、子ども達を甲子園に連れて行けない現実に、「仕方ない」とも思った。

浦和学院の名は、今や全国に知れ渡る。「赴任してきた頃は、タクシーも道を知らなかった。野球部の功績は、本当に大きい」と誇らしげに語る。
今も夏の大会などの公式戦になると、球場に足を運ぶ。浦和学院は簡単に負けない粘り強いチームになったと感じる。
浦和学院の夏の甲子園最高成績は初出場時のベスト4だ。和田は「レベルは確実に上がっている。県勢で1番最初に深紅の大優勝旗をつかむのは浦学だ」と信じている。(敬称略)

2008年6月23日 朝日新聞朝刊 埼玉版に掲載

ADVENBBSの過去ログを表示しています。削除は管理者のみが可能です。