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高校野球News
管理人 /
2009-06-27 12:22:00
No.15729
よみがえれ上尾・熊商野球3
自主性重視の闘将
息づく古豪の遺伝子
腕を組んで、どっかとベンチに腰を下ろして微動だにしない。それが上尾を夏4度の甲子園、1975(昭和50)年には全国4強まで押し上げた故・野本喜一郎のおきまりのスタイルだ。口数も少なかったというのが、卒業生の一致した評。1週間、「ご苦労さん」の一言だけのときもあったという。
「あいつは練習やってねえから失敗するんだ」「こう打たないと」。試合中になるとぼそりとつぶやく。本人には直接言わない。監督の言葉はチームメートを通して本人の耳に入ってくる。「見ていないようで、ちゃんと見ていてくれた。監督の言葉がすごく効いた」とOBで北本監督の斉藤秀夫監督。
練習は3時間。強豪校では決して長くない。「3時半から始まって、7時前に終了。7時半には帰りの電車に乗っていた」と斉藤。「みんな絶対言わなかったが、帰宅してから課題の克服に取り組んでいた」。斉藤も素振りなどを欠かさなかった。
野本は社会人野球、プロ野球の西鉄ライオンズ(当時)などで投手として活躍した。58年に上尾の監督に就任。それまでの経験を通して、「野本さんは、高校野球は人が育つ原点と言っていた」と、卒業生の浦和学院監督の森士は話す。
森も「三つ子の魂百までではないが、高校3年間は社会に出るための原点」と恩師の影響を口にする。
森にとって、野本の座右の銘「大胆細心」は、野球人の指針であり、現在の指導法に生きているという。
現役時代に投手だった森は思うような投球が出来ず、悩んでいた時期があった。そこで「監督からあまりにも何も言われないので、『教えて下さい』とお願いに言ったら、『いい球が行くようになれば、それがいいフォーム』と言われた。投げて投げて投げまくるしかないと吹っ切れた」。
斉藤も「必要以上に教えなかった。”根性野球”隆盛の中で異色だったと思う。若いうちは出来なかったが、私自身もそういう指導法に転換していった」。
自分で考える力を養う。原点だからこそ形にとらわれず、人間的な成長にもこだわった。
森が1年の時、外野練習の回された。どうしても投手練習に参加したかったので、勝手に投手陣に混じってしまった。だが、野本は黙認した。後に「人づてに聞いたが、野本監督は『野球は頑固者じゃないと大成しない』と話していた。芽をつぶさないようにしてくれていた」と、包容力の大きさに胸を打たれたという。
「監督は我慢だよ」。斉藤が鷲宮で初めて指導者となることが決まった時、野本から贈られたアドバイスだ。「がんがんやるのは監督の自己満足。余力を残して、いかに自分で練習するように仕向けていくか。明日も楽しみだなと思わせられるか」。
戦時中に従軍したという野本。自由に野球が出来る喜び、野球少年の純粋な欲求を満たしてあげることが、名門への道を開いたのかも知れない。
2009年6月27日 埼玉新聞掲載
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自主性重視の闘将
息づく古豪の遺伝子
腕を組んで、どっかとベンチに腰を下ろして微動だにしない。それが上尾を夏4度の甲子園、1975(昭和50)年には全国4強まで押し上げた故・野本喜一郎のおきまりのスタイルだ。口数も少なかったというのが、卒業生の一致した評。1週間、「ご苦労さん」の一言だけのときもあったという。
「あいつは練習やってねえから失敗するんだ」「こう打たないと」。試合中になるとぼそりとつぶやく。本人には直接言わない。監督の言葉はチームメートを通して本人の耳に入ってくる。「見ていないようで、ちゃんと見ていてくれた。監督の言葉がすごく効いた」とOBで北本監督の斉藤秀夫監督。
練習は3時間。強豪校では決して長くない。「3時半から始まって、7時前に終了。7時半には帰りの電車に乗っていた」と斉藤。「みんな絶対言わなかったが、帰宅してから課題の克服に取り組んでいた」。斉藤も素振りなどを欠かさなかった。
野本は社会人野球、プロ野球の西鉄ライオンズ(当時)などで投手として活躍した。58年に上尾の監督に就任。それまでの経験を通して、「野本さんは、高校野球は人が育つ原点と言っていた」と、卒業生の浦和学院監督の森士は話す。
森も「三つ子の魂百までではないが、高校3年間は社会に出るための原点」と恩師の影響を口にする。
森にとって、野本の座右の銘「大胆細心」は、野球人の指針であり、現在の指導法に生きているという。
現役時代に投手だった森は思うような投球が出来ず、悩んでいた時期があった。そこで「監督からあまりにも何も言われないので、『教えて下さい』とお願いに言ったら、『いい球が行くようになれば、それがいいフォーム』と言われた。投げて投げて投げまくるしかないと吹っ切れた」。
斉藤も「必要以上に教えなかった。”根性野球”隆盛の中で異色だったと思う。若いうちは出来なかったが、私自身もそういう指導法に転換していった」。
自分で考える力を養う。原点だからこそ形にとらわれず、人間的な成長にもこだわった。
森が1年の時、外野練習の回された。どうしても投手練習に参加したかったので、勝手に投手陣に混じってしまった。だが、野本は黙認した。後に「人づてに聞いたが、野本監督は『野球は頑固者じゃないと大成しない』と話していた。芽をつぶさないようにしてくれていた」と、包容力の大きさに胸を打たれたという。
「監督は我慢だよ」。斉藤が鷲宮で初めて指導者となることが決まった時、野本から贈られたアドバイスだ。「がんがんやるのは監督の自己満足。余力を残して、いかに自分で練習するように仕向けていくか。明日も楽しみだなと思わせられるか」。
戦時中に従軍したという野本。自由に野球が出来る喜び、野球少年の純粋な欲求を満たしてあげることが、名門への道を開いたのかも知れない。
2009年6月27日 埼玉新聞掲載