浦学OB倶楽部 BBS
新規
過去
ヘルプ
管理
戻る
ADVENBBSの過去ログを表示しています(閲覧専用)
野球部情報
管理人 /
2011-07-27 11:39:00
No.20620
浦和学院 春夏の夢消える
花咲徳栄は2ー2の同点に追い付かれた直後の6回、1死二塁から北川の左越え二塁打で勝ち越すと、7、8回にも新井のスクイズなどで確実に追加点を奪った。エース北川は14安打を浴びながらも粘りの投球で2失点完投。浦和学院は5回の5連打による2点にとどまり、中山ー村田ー佐藤とつないだ投手陣を援護できず。
『拙攻続き猛威に影』
4点を追う九回2死一、三塁、笹川のバットが空を切り、春夏連続甲子園を目指した浦和学院の戦いが幕を閉じた。昨秋の関東大会を制した時の勢いはなく、投打ともにちぐはぐなまま花咲徳栄に力負け。森監督は「打線は終始積極的に打ったが、点数に結び付けられなかった。投手も踏ん張り切れなかった」と淡々と敗因を並べた。
最大の敗因は14安打で14残塁の拙攻。一、三回の先制機で主軸が倒れた。五回には1死から5連打し、2得点で同点としたが、続く2死一、二塁で凡退。3点を追う七回には3四球で2死満塁としながらあと1本が出ず、九回には1死から3連打を放ちながら走塁ミスで好機をつぶした。
各打者は花咲徳栄の北川の球を捉えていた。3番小林は「打撃はうちが上だった」。5番日高は「打てない投手ではない」と言うのも強がりではない。だが、ここぞで打てなければ強力打線とは言えない。
投手は選抜出場の立役者となった佐藤が本調子ではなく、先発は左腕中山だった。序盤は力投したが中盤につかまり、六回途中で3失点。継投したのは公式戦初登板の左腕村田で失点を重ねる。エースがマウンドに立ったのは八回からだった。
選抜で初戦敗退し、春の県大会では3回戦で敗戦。夏はその雪辱を期して臨んだはずだった。森監督は「選手たちは春に負けた悔しさを基にやってきた。勝たせてあげられなかった」と選手をかばった。
これで夏の甲子園を逃したのは3年連続。2008年まで3連覇と猛威を振るった“ウラガク”の盛夏に影が差しているのか。
『重圧の夏、涙で幕』
主将の目は真っ赤に腫れていた。相手を上回る14安打を放ちながら14残塁の拙攻で敗退。「悔しい。1番佐藤が毎打席チャンスをつくってくれたのに中軸で仕留め切れなかった」。春夏連続の甲子園出場を逃した3番小林は自分を責めた。
一回1死二塁で中飛、三回1死一、二塁では右飛に倒れ、いずれも先制の好機を生かせなかった。「アウトになったが手応えはあった」。思いに結果が付いてこない。
1年秋からレギュラーに名を連ね、主将として迎えた“3年の夏”は重圧との戦いだった。準々決勝までの5試合で打率は2割1分4厘。本来の姿からほど遠い成績に、「気持ちは誰にも負けてないのに」と実感がにじむ。
それでも五回には左前適時打で同点へ口火を切る。「打ったのはチェンジアップ。落ちる球を狙ってた」と納得の一打だった。
選抜大会出場は小林にとって夏への通過点だった。「3年間重ねた練習もみんな最後の夏のため。あと二つまできたのにふがいない」。涙を必死にこらえる姿に、夏にすべてを懸けた主将の姿があった。
2011年7月27日 埼玉新聞掲載
Re:野球部情報
管理人 /
2011-07-27 12:06:00
No.20621
右に左に4安打 1番佐藤が奮闘
1番バッターの2年佐藤が仕事を果たした。準々決勝まで2割台の打率ながら、右に左に4長短打を放ち、塁上を駆け回った。「1番バッターとして、チャンスをつくることが自分の役目」と、佐藤。
昨秋のエースながら本調子ではなく、この日も8回からマウンドに立ったが、1失点を喫した。「絶対に点を与えない気持ちでマウンドに上がったが…」と肩を落とす2年生右腕。「来年こそ、全国制覇という結果を残す」と雪辱を期した。
『投球に気負い悔しさにじむ』
「自分の弱さが出た」。先発中山は試合後、ベンチ裏でおえつした。
4回、注意していた大塚に二塁打を喫し、この回、4安打を浴びて2点を許した。5回に同点に追い付くと、6回四球で出した先頭の廣岡がホームを踏み、勝ち越された。
「同点にしてもらい、気負い、腕が振れなくなった」と中山。胸元を突き、緩急をつけた投球で相手打線を翻弄する策を描いていた。「徳栄打線はコースに逆らわず、しっかり打ってきた」と悔しさをにじませた。
『好機に打てなかった』浦和学院・沼田三塁手
(1、3、7回の好機に1打が出ず)チャンスが回ってきたのにヒットが打てなかった。クリーンアップの自分が足を引っ張ってしまった。
『打撃の特徴出せず』浦和学院・日高一塁手
(5回に適時打を放つが敗戦)とにかくランナーをかえそうと必死で食らいついた。でも相手がいい投手。打撃のチームの特徴を出せなかった。
2011年7月27日 埼玉新聞掲載
Re: 野球部情報
管理人 /
2011-07-27 12:37:00
No.20623
浦和学院、好機生かせず
花咲徳栄の打力が上回った。4回表、先頭の大塚の左中間二塁打を皮切りに、新井の左前適時打と広瀬の中前適時打で2点を先制。同点で迎えた6回、1死二塁から北川の左越え二塁打で勝ち越した。7、8回にも加点し、打棒を見せつけた。浦和学院は5回、佐藤の二塁打など5連打で同点にしたが、7回2死満塁や、9回の3連打のあとの好機を生かせず、走塁ミスが出たのが痛かった。
4打数4安打「1番」大活躍 浦和学院・佐藤選手
浦和学院打線で、1番佐藤拓也君(2年)の打撃が光った。1回裏に右前安打で一塁に出ると、3回裏には中前安打、5回裏には左超え二塁打の大当たり。7回裏には四球を選び、8回裏には左前安打を放って、この日は4打数4安打1四球の大活躍だった。
「相手投手の配球が外側に流れていた。イメージを思い浮かべて振っていた。先頭打者として好機を作るのが役目」と振り返った。
ただ、得点に結びついたのは5回裏の安打だけで、残りの出塁は後続を断たれた。森士監督は「あともう1本出ていれば…」と悔しさをにじませる。
佐藤君は8回からリリーフ投手としてマウンドに立ち、1点を失った。「あそこで抑えていれば、試合展開は変わっていたはず」と涙ながらに話した。
父を甲子園へ 夢無念 浦和学院・森捕手
7回表、1死一塁。「ここは絶対に走ってくる」。浦和学院の捕手森光司君(3年)は、データに基づいた予想通り、盗塁を試みた走者を刺し、打者を打ち取った。ベンチに戻ると、父親でもある森士監督とハイタッチした。
次男として生まれた時には、すでに父は浦和学院の監督を務めていた。そんな背中を見て育ち、小学1年で野球を始めた。そのころには「浦和学院で野球をやる」と思っていたという。
3歳上の兄は投手として活躍し、2008年の夏には、父を甲子園に連れて行った。当時、中学3年だった光司君は「俺もおやじを甲子園に連れて行きたい」と強く思ったという。
「おい森」「はい、森先生」。あこがれの野球部に入ると親子ではなく、監督と選手として接するようになった。兄から聞いていたが、グラウンドの父は、家でくつろいでいる時とは別人だった。指導が厳しく、ハードな練習に悩むこともあった。
「ここで負けるんじゃないぞ。つらいのはお前だけじゃない」。つらい時、支えてくれたのは兄だった。「おやじは監督、俺は選手。だが、浦和学院はおれたち親子だけじゃなくて、仲間とみんなで一つのチームなんだ」
厳しい練習に耐え、ようやく迎えた最後の大会。前夜、東京の大学で野球をしている兄に「絶対、勝つから」と電話で誓った。
4点差をつけられていた9回裏、打席が回ってきた。「このチームで甲子園に行くんだ」。あきらめるつもりはなかった。振り抜いた打球は一、二塁間を抜けた。盛り上がるベンチを見ると、監督と目があった。うなずいているように見えた。
父を甲子園に連れて行く夢はかなわなかった。「選手として、チームメートとともに監督に感謝しています」。最後の試合が終わり、グラウンドの親子は、もう選手と監督ではなくなった。
2011年7月27日 朝日新聞埼玉版掲載
Re: 野球部情報
管理人 /
2011-07-27 12:43:00
No.20624
「親子鷹」夢途切れる
「もう一度甲子園出場を決めておやじを男にしたかった」。浦和学院の森光司捕手(3年)は大粒の涙を流した。同校の森士)監督の次男。4点を追う九回一死一、二塁で右前打を放ち、逆転の希望をつないだ。しかし、味方の走塁死と後続の三振で「親子鷹」の夢はついえた。
3歳年上の兄大さん(20)は同校の投手として甲子園に出場し、今は早大野球部で活躍している。自身も父と兄と同じ野球の道を選び、グラウンドでは父を「先生」と呼んだ。他の選手と比べて自分への指導が厳しいと感じることもあったが、母志奈子さんに「自分が浦学を選んだのでしょう」と励まされた。
試合後、「野球のすべてを教えてもらった。本当に感謝している」と言えば、父は「3年間、よくついてきてくれた」とねぎらった。
2011年7月27日 読売新聞埼玉版掲載
ADVENBBSの過去ログを表示しています。削除は管理者のみが可能です。
花咲徳栄は2ー2の同点に追い付かれた直後の6回、1死二塁から北川の左越え二塁打で勝ち越すと、7、8回にも新井のスクイズなどで確実に追加点を奪った。エース北川は14安打を浴びながらも粘りの投球で2失点完投。浦和学院は5回の5連打による2点にとどまり、中山ー村田ー佐藤とつないだ投手陣を援護できず。
『拙攻続き猛威に影』
4点を追う九回2死一、三塁、笹川のバットが空を切り、春夏連続甲子園を目指した浦和学院の戦いが幕を閉じた。昨秋の関東大会を制した時の勢いはなく、投打ともにちぐはぐなまま花咲徳栄に力負け。森監督は「打線は終始積極的に打ったが、点数に結び付けられなかった。投手も踏ん張り切れなかった」と淡々と敗因を並べた。
最大の敗因は14安打で14残塁の拙攻。一、三回の先制機で主軸が倒れた。五回には1死から5連打し、2得点で同点としたが、続く2死一、二塁で凡退。3点を追う七回には3四球で2死満塁としながらあと1本が出ず、九回には1死から3連打を放ちながら走塁ミスで好機をつぶした。
各打者は花咲徳栄の北川の球を捉えていた。3番小林は「打撃はうちが上だった」。5番日高は「打てない投手ではない」と言うのも強がりではない。だが、ここぞで打てなければ強力打線とは言えない。
投手は選抜出場の立役者となった佐藤が本調子ではなく、先発は左腕中山だった。序盤は力投したが中盤につかまり、六回途中で3失点。継投したのは公式戦初登板の左腕村田で失点を重ねる。エースがマウンドに立ったのは八回からだった。
選抜で初戦敗退し、春の県大会では3回戦で敗戦。夏はその雪辱を期して臨んだはずだった。森監督は「選手たちは春に負けた悔しさを基にやってきた。勝たせてあげられなかった」と選手をかばった。
これで夏の甲子園を逃したのは3年連続。2008年まで3連覇と猛威を振るった“ウラガク”の盛夏に影が差しているのか。
『重圧の夏、涙で幕』
主将の目は真っ赤に腫れていた。相手を上回る14安打を放ちながら14残塁の拙攻で敗退。「悔しい。1番佐藤が毎打席チャンスをつくってくれたのに中軸で仕留め切れなかった」。春夏連続の甲子園出場を逃した3番小林は自分を責めた。
一回1死二塁で中飛、三回1死一、二塁では右飛に倒れ、いずれも先制の好機を生かせなかった。「アウトになったが手応えはあった」。思いに結果が付いてこない。
1年秋からレギュラーに名を連ね、主将として迎えた“3年の夏”は重圧との戦いだった。準々決勝までの5試合で打率は2割1分4厘。本来の姿からほど遠い成績に、「気持ちは誰にも負けてないのに」と実感がにじむ。
それでも五回には左前適時打で同点へ口火を切る。「打ったのはチェンジアップ。落ちる球を狙ってた」と納得の一打だった。
選抜大会出場は小林にとって夏への通過点だった。「3年間重ねた練習もみんな最後の夏のため。あと二つまできたのにふがいない」。涙を必死にこらえる姿に、夏にすべてを懸けた主将の姿があった。
2011年7月27日 埼玉新聞掲載