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浦和学院 情報
管理人 /
2013-09-11 13:14:00
No.26792
被災地と交流 長く温かく
浦和学院 石巻結ぶ“案内人”
進学した生徒と再会も
さいたま市緑区の浦和学院高校(小沢友紀雄校長、生徒数2400人)が宮城県石巻市の人たちと、物心両面の交流を続けている。同校の活動には現地の水先案内人がいる。今春まで石巻北中学校の校長だった畠山卓也さん(60)と、石巻専修大同窓会長の伊東孝浩さん。被災地が何を望んでいるか、何が必要なのかをアドバイスしてきた。浦和学院で支援活動のチーフを務める企画部長の車谷裕通さん(51)は「畠山さんと伊東さんがいなければ、交流活動はこんなに長く続き、豊かにならなかった」と話している。畠山さんと車谷さんに話しを聞いた。
◆甲子園
夏休み中の8月7日から10日にかけて、特別進学クラスの1〜3年生14人と3泊4日の支援活動を実施した。宮城県・牡鹿半島の大原小(児童数26人)と寄磯小(同14人)で、子どもたちに勉強を教え、一緒に遊んだ。
畠山さんの手引きで実現した活動。子どもたちは喜んでくれたが、引率の車谷さんは気が気ではなかった。10日は甲子園で自分もOBである浦和学院野球部が仙台育英高校と戦う日だった。
早朝、単身で仙台から飛行機で大阪へ。甲子園で応援した車谷さんは、母校が敗れた後、駐車場に走り仙台育英のバスを探した。
◆佐々木君はいるか
2011年4月以来、石巻市の人たちと交流を重ねる中で、畠山さんが校長の石巻北中の生徒がお祝いの寄せ書きを贈った。その中で佐々木敬太君は「今度、仙台育英野球部へ行きます。甲子園でお会いしましょう」と書いていた。
駐車場で、車谷さんは仙台育英のバスに向かって叫んだ。「佐々木君はいるか−」。
佐々木君はいた。1年生だがちゃんと仙台育英のユニホームを着ていた。「覚えている?」と車谷さんが聞く。「覚えています。ご支援ありがとうございました」と佐々木君。それを聞いて車谷さんは「交流していて本当に良かった」と心の中で号泣した。
◆ファミリー
東日本大震災の翌日、浦和学院の小沢校長は車谷さんを呼んで指示した。「東北へ目を向けなさい。支援ではなく交流として考えたい」。車谷さんは、春の選抜大会で甲子園に派遣する応援団を中止して、浮いた予算を交流活動に回すと決めた。
同4月1日から3日間の第1回交流活動は、水や食料を詰め込んだ大型車2台とグラウンド整備の散水車の3台と車谷さんら職員4人。
生徒の家族など学校関係者だけでなく、学校周辺の緑区代山地区住民の手も借りた。震災以前からの「浦学ファミリー」の活動が生きた。水は空のペットボトルを集め、よく洗い学校の水道水を詰めた。散水車も清潔な水なので大変喜ばれた。埼玉でも不足していたガソリンも集め持参した。
◆語り部
知り合ったところに、望まれたものを支援することを原則に、交流は今年8月で27回になる。石巻の子らを浦和学院の合宿所に招く活動も9月で15回だ。
定年退職した畠山さんは4月から浦和学院高で物理と化学の講師を務める傍ら、震災の語り部として埼玉の小中学校での講演に多忙だ。
「津波の後、私の石巻北中から、北上川の対岸に津波で児童ら84人が亡くなった大川小が見える。あそこにいたら自分もいない。生き残ったものとしての義務について考え続けてきました」。畠山さんは講演でそう話す。
「津波という言葉を聞くと、体が硬直してしまう子がいる。被災地ではまだ当分、つらい仮設住まいが続く。家族や友だちを失った悲しみを抱える人たちに寄り添い、心の支えになる支援が欲しい」
「そのために被災地に来て、みんなの心の声を聴いてほしい。新しい友だち、親戚としてこれから長い付き合いをしてほしい。その仲立ちの役目を果たしたい」。畠山さんは東北、石巻からの使者なのだ。
2013年9月11日 埼玉新聞掲載
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浦和学院 石巻結ぶ“案内人”
進学した生徒と再会も
さいたま市緑区の浦和学院高校(小沢友紀雄校長、生徒数2400人)が宮城県石巻市の人たちと、物心両面の交流を続けている。同校の活動には現地の水先案内人がいる。今春まで石巻北中学校の校長だった畠山卓也さん(60)と、石巻専修大同窓会長の伊東孝浩さん。被災地が何を望んでいるか、何が必要なのかをアドバイスしてきた。浦和学院で支援活動のチーフを務める企画部長の車谷裕通さん(51)は「畠山さんと伊東さんがいなければ、交流活動はこんなに長く続き、豊かにならなかった」と話している。畠山さんと車谷さんに話しを聞いた。
◆甲子園
夏休み中の8月7日から10日にかけて、特別進学クラスの1〜3年生14人と3泊4日の支援活動を実施した。宮城県・牡鹿半島の大原小(児童数26人)と寄磯小(同14人)で、子どもたちに勉強を教え、一緒に遊んだ。
畠山さんの手引きで実現した活動。子どもたちは喜んでくれたが、引率の車谷さんは気が気ではなかった。10日は甲子園で自分もOBである浦和学院野球部が仙台育英高校と戦う日だった。
早朝、単身で仙台から飛行機で大阪へ。甲子園で応援した車谷さんは、母校が敗れた後、駐車場に走り仙台育英のバスを探した。
◆佐々木君はいるか
2011年4月以来、石巻市の人たちと交流を重ねる中で、畠山さんが校長の石巻北中の生徒がお祝いの寄せ書きを贈った。その中で佐々木敬太君は「今度、仙台育英野球部へ行きます。甲子園でお会いしましょう」と書いていた。
駐車場で、車谷さんは仙台育英のバスに向かって叫んだ。「佐々木君はいるか−」。
佐々木君はいた。1年生だがちゃんと仙台育英のユニホームを着ていた。「覚えている?」と車谷さんが聞く。「覚えています。ご支援ありがとうございました」と佐々木君。それを聞いて車谷さんは「交流していて本当に良かった」と心の中で号泣した。
◆ファミリー
東日本大震災の翌日、浦和学院の小沢校長は車谷さんを呼んで指示した。「東北へ目を向けなさい。支援ではなく交流として考えたい」。車谷さんは、春の選抜大会で甲子園に派遣する応援団を中止して、浮いた予算を交流活動に回すと決めた。
同4月1日から3日間の第1回交流活動は、水や食料を詰め込んだ大型車2台とグラウンド整備の散水車の3台と車谷さんら職員4人。
生徒の家族など学校関係者だけでなく、学校周辺の緑区代山地区住民の手も借りた。震災以前からの「浦学ファミリー」の活動が生きた。水は空のペットボトルを集め、よく洗い学校の水道水を詰めた。散水車も清潔な水なので大変喜ばれた。埼玉でも不足していたガソリンも集め持参した。
◆語り部
知り合ったところに、望まれたものを支援することを原則に、交流は今年8月で27回になる。石巻の子らを浦和学院の合宿所に招く活動も9月で15回だ。
定年退職した畠山さんは4月から浦和学院高で物理と化学の講師を務める傍ら、震災の語り部として埼玉の小中学校での講演に多忙だ。
「津波の後、私の石巻北中から、北上川の対岸に津波で児童ら84人が亡くなった大川小が見える。あそこにいたら自分もいない。生き残ったものとしての義務について考え続けてきました」。畠山さんは講演でそう話す。
「津波という言葉を聞くと、体が硬直してしまう子がいる。被災地ではまだ当分、つらい仮設住まいが続く。家族や友だちを失った悲しみを抱える人たちに寄り添い、心の支えになる支援が欲しい」
「そのために被災地に来て、みんなの心の声を聴いてほしい。新しい友だち、親戚としてこれから長い付き合いをしてほしい。その仲立ちの役目を果たしたい」。畠山さんは東北、石巻からの使者なのだ。
2013年9月11日 埼玉新聞掲載