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土井杏利 情報
管理人 /
2014-07-06 02:35:00
No.29035
土井杏利 28期 現:CHAMBERY(フランス)
フランス直行のプロハンドボーラー シャンベリーで活躍する土井杏利って何者!?
ハンドボールのフランス1部リーグでプロとして活躍する若者がいる。シャンベリー所属の土井杏利。名門・日体大を卒業後、日本リーグを経ずに欧州へ渡った。バックプレーヤーもサイドもこなす抜群のスピードとキレ。底抜けにポジティブな思考。2016年リオデジャネイロ五輪、そして20年東京五輪での活躍が期待される24歳に異色の球歴を聞いた。
−−所属するフランスリーグ、シャンベリーとは
「世界のトップリーグはドイツのブンデスリーガですが、それに次ぐのがスペインとフランス。シャンベリーはモンペリエとフランスリーグの1、2位を争ってきたチーム。チームメートには北京五輪の優勝メンバーが3人いて、そのうち2人はロンドン五輪でも優勝しています」
−−昨季、実際にプレーして
「最終的にリーグ優勝したダンケルクとの試合、最終戦のモンペリエとの試合と大事なゲームで得点できた。1対1で抜けないことはない。運動能力では僕が上回っている。(身長179センチで)一番小さいけどスピード、テクニックはある」
−−ハンドボールとの出合いは
「1つ上の兄がハンドをやっていて、小学3年生の時、たまたまクラブの練習を見に行ったら一気に引き込まれた。もともとサッカーをやろうと思っていて、ハンドのすぐ後にサッカークラブを見学に行く予定だったんだけど、その場で『入ります』と」
−−何が魅力だったか
「ジャンプして投げるとか、コンタクト(身体接触)とか、全てですね。当時、僕はドッジボール少年で、肩が強くて投げるのは好きだった」
−−小さい頃から活躍していた?
「チームは強くなかった。千葉・富里北中では県大会の1、2回戦負け。でも、1人で1試合平均15点くらい取っていました」
−−浦和学院高から日体大に進んだ
「大学1年は左膝を故障して練習できなかった。2年はベンチ入りして、スーパーサブだった。ゴールキーパーとポスト以外はやった。3年で右バックのレギュラーをつかんだけど、インカレの決勝で国士舘大に1点差で負けてしまった。本当に悔しくて。銀メダルをベッドの下に飾った。悔しさを忘れないように。もらったメダルを飾ったのは初めてでしたね」
−−最終学年では
「また左膝を痛めて、かばっていたら右膝も痛めた。シーズンの最後は毎日、(膝関節でクッションの効果がある)注射をしていた。ディフェンス要員として出場してインカレで優勝。全日本総合も準決勝まで進みました」
−−卒業後は、どう考えていたか
「実業団から勧誘もあったけど、医師とも相談して『膝に爆弾を抱えている状態では会社にも迷惑を掛ける』と競技をやめる決意をした。辛くてボロボロ泣いて、掃除道具が入ったロッカーを壊すくらい荒れましたね」
−−普通に就職しようと
「でも、すぐには就職したくなかった。それまでハンドしかしてこなかったので、1年間、自分を磨こうと思ったんです。僕、父がフランス人で母が日本人なのでフランス語を少し話せた。フランス語を勉強しようと考えて、それなら直接、現地に行った方が習得も早いだろうと」
−−それでフランス東部のシャンベリーを選んだ
「語学に適した学校があったというのが理由の一つ。あとアルプスの近くで山も湖もきれいで気に入ったというのもあった。それと、僕は、本田技研にいたストックランのファンで、小学校の頃、駒沢体育館にプレーオフとか見に行っていた。ストックランがフランスで所属していたのがシャンベリーで、(世界的なトッププレーヤーだった)あのリシャーソンもシャンベリーの選手だった。だから、平日は語学の勉強をして、週末に自然を楽しんだりハンド見たりしようと考えていたんです」
−−ハンドをするためでなく
「そうなんです。8月頃に行って、しばらくそういう生活をしていたら膝の痛みがなくなった。それで『もう一度、プレーしたいな』と思って、シャンベリーのクラブ事務所に行ったんですよ。クラブには6歳から18歳まで年齢別とか(成人の)アマチュアのカテゴリーがあるので、趣味程度にできないかなと。拙いフランス語で伝えたら、プロの一つ下の若手主体のチームの練習に参加していいよ、となった。フランスのユース代表選手とかもいて3部リーグで戦っているチームです」
−−急展開だ
「毎日、練習に参加するようになって、結局、語学学校は2カ月でやめてしまった。筋力トレーニングの時間と学校が重なるようになったので。それにフランス人と話している方が言葉も覚える。そのうち『試合にも出てくれ』と言われて(選手登録の)手続きをしてシーズン後半から出場しました。ポジションはセンターでした」
−−膝は大丈夫だったのか
「不思議なことに問題なくなっていた。初めて出た試合で後半だけで6点取って、地方の新聞に写真付きで『シャンベリーを蘇らせた』と大きく載った。下部でもモンペリエはライバルで、その試合でも8点くらい取った。試合は負けたけど、トップチームの目に留まって、けが人が出た関係もあって(トップに)引き上げられました」
−−すぐ出場できたか
「コートには立てなかった。でも、(ベンチに入った)最初のカップ戦は興奮しましたね。ここで『もしかしたら行ける』と思えるようになった。シーズンの最後はトップチームの練習にも誘われるようになって、経験の少ない左サイドで使われたけど、まともにやれた」
Re: 土井杏利 情報
管理人 /
2014-07-06 02:37:00
No.29036
−−これが前の前のシーズン。プロ契約は
「昨季の前にサイドプレーヤーとしてプロ契約した。クラブから電話がかかってきた時は手が震えました。信じられなかったですね。フランスなら誰もが『入りたい』と憧れるビッククラブだから。そこからは苦労しましたけど」
−−具体的には
「最初、自分のプレーが出せなかった。五輪の金メダリストとか、クロアチア代表のエースとかがいるチーム。日本人の悪いところで気を使ってしまった。自分で1対1に行かないでパスしてしまったり。試合には少し出ていたけど結果を残せず、監督の信頼も失ってしまった。それまで気楽にプレーして活躍できていたけど、(プロという)仕事になって『ミスはできない』と自分を殺してしまった。フランスリーグには日本人がいないので、相談もできなかったですね」
−−どのように立て直した
「シーズン前半が終わって、リーグが冬休みに入った。『ここで自分を変えないと終わる』と思って、1日中、ひたすらイメージトレーニングをした。まずはプレーの前にチームに溶け込むことをイメージした。プレーはできる。変えないといけないのはメンタルだと。それでシーズン後半が始まって、自分のプレーが前よりできるようになって信頼も取り戻せた。今では(退場で)人数が少ない状況などでは『上から点を取ってこい』と僕の1対1で点を取らせるシフトを敷くようになりました」
−−契約と給料は
「契約はあと1年残っています。昨季の活躍で給料は倍になった。額は日本の実業団と変わらないですよ。月二十数万円。トップ選手は月200万円弱くらいもらっている。パリ・サンジェルマンはお金のあるクラブなので、(所属するトップ選手は)月400万〜500万円もらっています」
−−日本とハンドボール文化の違いは
「フランスは歴史があるし、熱いですね。シャンベリーは4000人収容の専用スタジアムを持っていて、毎試合、満員になる。ファンも熱狂的で、旗を振って太鼓を叩いて叫んでいる」
−−ファンサービスなどは
「試合の後、立食の食事会があって、参加特典付きのチケットを買ったファンと選手が参加します。ホームの試合では必ずやっている。アウェーの選手も顔を出したりする。加えて毎試合、選手2人が出口でサイン会をします。これ(に出る選手)はチームから指名されます。シーズン中、2回くらい回って来るかな。食事会に出るファンだけじゃないから。ポストカードにサインをして行列ができます」
−−日本人の海外進出について、どう考えるか
「シニアの日本代表に入ったことのない僕がここまで来られた。『何をやっている日本人。もっとできるだろう』とアピールしたい。世界の中に入らないと分からないことがたくさんある。例えば、海外のゴールキーパーは止め方のスタイルが違うので、(日本選手は)大事なところでシュートミスが出る。これは慣れの問題だと思う。シュート確率を上げられるかが重要。あとスピードを上げれば(ディフェンスのポジションは)ずらせるから」
「それと言葉の問題は、やる気の問題。大事なのはハンドを楽しむこと。自分は努力したと思ったことがない。ハンドだったらいくらでもできる。楽しい。テレビゲームをやって『努力した』と言う人はいないでしょ。それと同じです」
−−今後の課題は
「左サイドはほとんどやってこなかったポジションなので、伸びしろ、希望しかない。シュートの感覚も良くなってきたし、シュートバリエーションも増えた。フランスはボールが小さいのかスピンが掛けやすい」
−−日本は韓国に勝たないとリオデジャネイロ五輪が見えてこないが
「『世界に勝たないといけない』という意識じゃないと、韓国にも勝てないのでは。目標は高く持った方が良い。僕は浦和学院に進む時、周囲に『厳しいんじゃないか。やめた方がいいんじゃないか』と言われたけど、気にしない。高いレベルに身を置くようにしています」
−−日本代表への意識は
「20年東京五輪は頭に入っているし、(代表に)呼ばれれば日の丸のために尽くす。だけど、今は代表について考えられない。僕はまだプロ契約しただけで、めちゃくちゃ良い選手という訳じゃない。日本に『こいつは必要だ』と思ってもらえるようになったらいい。(フランスで)結果を残すこと、安定した活躍をすることが必要だと思っています」
■土井杏利(どい・あんり) 1989年9月28日、パリ生まれ。日本とフランスの国籍を持つ。フランス名はRemi Feutrier。千葉・日吉台小−富里北中−埼玉・浦和学院高−日体大−シャンベリー。右利き。身長179センチ、76キロ。
2014年7月6日 産経新聞掲載
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フランス直行のプロハンドボーラー シャンベリーで活躍する土井杏利って何者!?
ハンドボールのフランス1部リーグでプロとして活躍する若者がいる。シャンベリー所属の土井杏利。名門・日体大を卒業後、日本リーグを経ずに欧州へ渡った。バックプレーヤーもサイドもこなす抜群のスピードとキレ。底抜けにポジティブな思考。2016年リオデジャネイロ五輪、そして20年東京五輪での活躍が期待される24歳に異色の球歴を聞いた。
−−所属するフランスリーグ、シャンベリーとは
「世界のトップリーグはドイツのブンデスリーガですが、それに次ぐのがスペインとフランス。シャンベリーはモンペリエとフランスリーグの1、2位を争ってきたチーム。チームメートには北京五輪の優勝メンバーが3人いて、そのうち2人はロンドン五輪でも優勝しています」
−−昨季、実際にプレーして
「最終的にリーグ優勝したダンケルクとの試合、最終戦のモンペリエとの試合と大事なゲームで得点できた。1対1で抜けないことはない。運動能力では僕が上回っている。(身長179センチで)一番小さいけどスピード、テクニックはある」
−−ハンドボールとの出合いは
「1つ上の兄がハンドをやっていて、小学3年生の時、たまたまクラブの練習を見に行ったら一気に引き込まれた。もともとサッカーをやろうと思っていて、ハンドのすぐ後にサッカークラブを見学に行く予定だったんだけど、その場で『入ります』と」
−−何が魅力だったか
「ジャンプして投げるとか、コンタクト(身体接触)とか、全てですね。当時、僕はドッジボール少年で、肩が強くて投げるのは好きだった」
−−小さい頃から活躍していた?
「チームは強くなかった。千葉・富里北中では県大会の1、2回戦負け。でも、1人で1試合平均15点くらい取っていました」
−−浦和学院高から日体大に進んだ
「大学1年は左膝を故障して練習できなかった。2年はベンチ入りして、スーパーサブだった。ゴールキーパーとポスト以外はやった。3年で右バックのレギュラーをつかんだけど、インカレの決勝で国士舘大に1点差で負けてしまった。本当に悔しくて。銀メダルをベッドの下に飾った。悔しさを忘れないように。もらったメダルを飾ったのは初めてでしたね」
−−最終学年では
「また左膝を痛めて、かばっていたら右膝も痛めた。シーズンの最後は毎日、(膝関節でクッションの効果がある)注射をしていた。ディフェンス要員として出場してインカレで優勝。全日本総合も準決勝まで進みました」
−−卒業後は、どう考えていたか
「実業団から勧誘もあったけど、医師とも相談して『膝に爆弾を抱えている状態では会社にも迷惑を掛ける』と競技をやめる決意をした。辛くてボロボロ泣いて、掃除道具が入ったロッカーを壊すくらい荒れましたね」
−−普通に就職しようと
「でも、すぐには就職したくなかった。それまでハンドしかしてこなかったので、1年間、自分を磨こうと思ったんです。僕、父がフランス人で母が日本人なのでフランス語を少し話せた。フランス語を勉強しようと考えて、それなら直接、現地に行った方が習得も早いだろうと」
−−それでフランス東部のシャンベリーを選んだ
「語学に適した学校があったというのが理由の一つ。あとアルプスの近くで山も湖もきれいで気に入ったというのもあった。それと、僕は、本田技研にいたストックランのファンで、小学校の頃、駒沢体育館にプレーオフとか見に行っていた。ストックランがフランスで所属していたのがシャンベリーで、(世界的なトッププレーヤーだった)あのリシャーソンもシャンベリーの選手だった。だから、平日は語学の勉強をして、週末に自然を楽しんだりハンド見たりしようと考えていたんです」
−−ハンドをするためでなく
「そうなんです。8月頃に行って、しばらくそういう生活をしていたら膝の痛みがなくなった。それで『もう一度、プレーしたいな』と思って、シャンベリーのクラブ事務所に行ったんですよ。クラブには6歳から18歳まで年齢別とか(成人の)アマチュアのカテゴリーがあるので、趣味程度にできないかなと。拙いフランス語で伝えたら、プロの一つ下の若手主体のチームの練習に参加していいよ、となった。フランスのユース代表選手とかもいて3部リーグで戦っているチームです」
−−急展開だ
「毎日、練習に参加するようになって、結局、語学学校は2カ月でやめてしまった。筋力トレーニングの時間と学校が重なるようになったので。それにフランス人と話している方が言葉も覚える。そのうち『試合にも出てくれ』と言われて(選手登録の)手続きをしてシーズン後半から出場しました。ポジションはセンターでした」
−−膝は大丈夫だったのか
「不思議なことに問題なくなっていた。初めて出た試合で後半だけで6点取って、地方の新聞に写真付きで『シャンベリーを蘇らせた』と大きく載った。下部でもモンペリエはライバルで、その試合でも8点くらい取った。試合は負けたけど、トップチームの目に留まって、けが人が出た関係もあって(トップに)引き上げられました」
−−すぐ出場できたか
「コートには立てなかった。でも、(ベンチに入った)最初のカップ戦は興奮しましたね。ここで『もしかしたら行ける』と思えるようになった。シーズンの最後はトップチームの練習にも誘われるようになって、経験の少ない左サイドで使われたけど、まともにやれた」