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野球部 情報
管理人 / 2014-08-07 09:34:00 No.29348
高校野球は人間形成の場
13年センバツ優勝 浦和学院 森監督に聞く
「社会で生き抜く力つけてほしい」

23年間の監督生活で春夏合わせて19度の甲子園出場。通算23勝。埼玉の指導者の中で断トツの数字を誇るのが浦和学院の森士監督だ。昨年の選抜大会ではチームを初の全国制覇に導いた熱血漢に、指導者としての信念や役割などを聞いた。(聞き手・石井大輔)

Q.昨春はセンバツで優勝しましたが、あらためて夏に全国制覇するためには何が必要なのでしょうか。

「僕の中では、春と夏では全く別の大会だと捉えています。春はチームとしてもまだまだ。夏は集大成。気温も違う。そういう面で総決算は、夏。1回も負けられない中でトップに立つのは至難の業とあらためて感じています」

「埼玉で言えば、予選を勝ち抜いて10日チョットぐらいで本大会がある。そう考えるとひと月ぐらいの間に13、14試合を戦わないといけない。そういう総合力、チームのタフさが求められますね」

Q.森監督自身、現役時代、浦和学院の監督になりたての頃、そして現在と周囲の環境など、高校野球はどのように変化してきましたか。

「高校野球の注目度は昔から高く、人気のあるスポーツでした。僕が上尾高校2年生の時に参加校が99校で、3年の時に100校を超えました。急激に参加校が増えてきた時代で、だんだんと華々しくなってきている。でも昔からの規律や伝統を引き継いできて、歴史を感じるスポーツというのは間違いないですね」

Q.高校野球が今でも愛される理由は何ですか。

「常に目の前に全力。オールドファンの方はそういうところに若かりし頃を重ね、若い時代も自分の原点を見いだして今やる仕事に結びつける。若返る象徴だったり、少年たちにとっては憧れだった。色んな意味でひたむきさの中に自分自身が今求めて見いだせるものがあるのかなと感じます」

Q.指導者としての信念を教えてください。

「『目標はあくまで全国制覇、目的は勝負の世界に身を置いた中での人間形成』という高校野球の教育方針にすごく準じたことですね。高校野球という2時間に凝縮したドラマをみんなで楽しめる。楽しむためには、普段の生活からきっちりとやらなければならない。その中に自分自身の成長が求められていくと思いますね」

「野球という世界で僕も育ててもらい、成長させてもらった。どちらかと言うと、野球というスポーツよりも人が好きなのかなと。そっちが原点なのかもしれません」

「人間というか、人に対する思いを阻害してほしくないです。ひと言で言えば、『男、強くなければ生きていけない。されど、優しくなければ生きていく資格がない』なんていう人間味を求めているのは確かです。そんな強くて優しい選手になってほしいと思いますね」

Q.高校野球が果たす役割はどう考えですか。

「『三つ子の魂百まで』ということわざがありますが、それに似ていると思いますね。ここで育んだ体力だったり考え方、礼儀だったり、社会に出て基盤となっていく元の魂をつくる3年間。男の子が社会で生き抜く力を宿らす3年間になってほしいです」

Q.プロ野球出身者が高校野球を指導できるハードルが格段に下がり、プロ出身の高校野球の監督が増えると思いますが。

「技術的な部分でプロの卓越した経験、そういう者に指導を仰げるのは高校生にも貴重なことじゃないかなと。僕は良いことだと思います」

「ただ技術と、人としての心構えや器などを併用して成長させないといけない。技術だけに走ってしまい、教育というものが除外されてしまう懸念、不安はありますね。みんながプロ野球選手になるわけではなく、いろんな世界のプロになるので、そういう部分を高校野球の指導は求められている。技術的な成長を考えるとメリットはありますが、トータルで考えればメリットもデメリットもあるのかなと思います」

★森 士(もりおさむ)
浦和学院高野球部監督。旧浦和市出身。50歳。上尾高−東洋大出。1991年8月、27歳でコーチから監督に就任し、これまで数々のプロ野球選手を輩出した。昨春のセンバツ高校野球大会では浦和学院を初の全国制覇に導く。春夏合わせて19度の甲子園出場で通算23勝。

2014年8月7日 埼玉新聞掲載

Re: 野球部 情報
管理人 / 2014-08-07 09:59:00 No.29349
埼玉新聞の70年
夏の甲子園 県勢上位成績 準優勝2度 4強5度

過去、夏の甲子園で埼玉県勢は準優勝が2度、4強が5度ある。

準優勝は第75回大会(1993年)の春日部共栄のほか、1951(昭和26)年の第33回大会で熊谷が記録している。

この時代は県大会後、南関東大会を経ての甲子園出場だった。南関東大会を制した熊谷は、甲子園大会では、右腕エースの服部投手が初戦から3試合連続完封で29イニング連続無失点(準々決勝は延長11回)の快投を見せた。準決勝の和歌山商戦では、1四球だけの無安打無得点試合を達成した。決勝で平安(京都)に4−7で敗れた。

準優勝の熊谷以来、6年ぶりの県勢出場となった57(昭和32)年の第39回大会では、大宮が4強。大宮は準々決勝で大会屈指の左腕と言われた清沢投手を擁する岐阜商に2−1で競り勝ったが、準決勝で法政二(神奈川)に1−3で敗れた。

次に県勢が準決勝に進んだのが、73(昭和48)年の第55回記念大会。川越工が「小柄のエース」指田を強力打線がもり立て、準々決勝まで3試合を快勝。準決勝で優勝した広島商に0−7で敗れた。

75(昭和50)年の57回大会から、埼玉は県大会優勝校が甲子園に出場。上尾が2年連続の出場となり、今投手を軸に粘りの野球を発揮して甲子園を湧かせた。

初戦の小倉南(福岡)戦は5番の塚原一塁手が9回にサヨナラ本塁打を放ち5−4、土佐(高知)戦も4−3で競り勝った。準々決勝では原・現巨人監督擁する東海大相模(神奈川)と対戦。2点を追う8回に3得点し5−4と逆転勝ちした。

準決勝は新居浜商(愛媛)に5−6で逆転負けしたが、全国の野球どころの強豪と1点差の好試合を展開し、強い印象を残した。

88(昭和61)年の第68回大会では浦和学院が4強。上尾から同校に移って3年目の故・野本監督が一から作り上げ、豪快なチームに仕上がった。屈指のスラッガーの鈴木健選手(元西武)を軸とした強力打線とエース谷口投手のスクリューで快進撃。大会前に亡くなった野本監督の墓前に好成績を報告した。

その2年後の88(昭和63)年の第70回大会では、「さわやか市高旋風」を巻き起こした浦和市立(現市浦和)がベスト4入りを果たした。豪腕がいるわけでも強力打線がいるわけでもない「普通の高校生」チームが一戦一戦力を付け、全国の強豪を破っていく姿は痛快だった。

2014年8月7日 埼玉新聞掲載

Re: 野球部 情報
管理人 / 2014-08-07 10:18:00 No.29350
埼玉新聞が選ぶ埼玉大会決勝名勝負
(球史に残る夏の埼玉大会決勝を、埼玉新聞の独断と偏見で昭和、平成から1試合ずつ選んだ)

★昭和
1981年(昭和56)第63回大会
熊谷商5−4上尾
語り継がれる激闘

今も語り継がれる伝説の決勝。昭和50年代、埼玉県高校野球界を引っ張った両雄が激突した。0−2の7回、上尾が一気に4点を奪って逆転に成功。このまま逃げ切るかと思われたが、熊谷商が8回に1点を返すと、9回に2点を奪い、逆転サヨナラ勝ちした。

熊谷商はエース高橋が肘痛で先発を回避。マウンドには1年生右腕松本が上がる緊急事態となった。さらに3番打者の宇野が試合前に仲間が素振りしたバットが額に当たり、5センチの裂傷を負うアクシデントが追い打ちをかけた。宇野は出場を直訴し、頭を包帯でぐるぐる巻きしてグラウンドに立ち、サヨナラの生還を果たす。

大会屈指の左腕、上尾のエース日野は前日の準決勝で春日部工相手に無安打無得点試合を達成していた。そんな絶対的エースが先に2点を失った。しかも、上尾らしからぬ守備の乱れから。動揺が走ったに違いない。

しかし、7回2死走者なしから清水のソロ本塁打をきっかけに4得点したのは、底力のなせる業。本来なら試合の大勢はここで決していたはずだ。

ただ、熊谷商の執念は並みではなかった。それを斎藤監督が強気の采配でうまく引き出した。1点を追う9回、先頭の原口が安打で出塁。併殺を嫌って定石は犠打だが、強攻策に打って出た。すると宇野が安打で続き、続く4番森も強攻。結果は一ゴロだったが、走者は二、三進し好機は膨らんだ。

この気迫に上尾・日野は相当の重圧を感じただろう。疲労もあって球が高めに浮く。それを見逃さず町田が左前へ同点タイムリーを放った。完全な押せ押せムードの中、続く根岸が初球をたたきレフトへの飛球。タッチアップから頭に包帯を巻いた宇野がヘッドスライディングで3時間の激闘に終止符を打った。

1981年8月1日・県営大宮
第63回大会決勝
上尾 000 000 400 =4
熊谷商020 000 012X=5
【上】日野−庄司
【熊】松本、鉄山−森
▼本塁打 清水(上)
▼二塁打 岩下 清水(上)原口(熊)
▼試合時間 2時間56分

Re: 野球部 情報
管理人 / 2014-08-07 10:40:00 No.29351
★平成
2000年(平成12)第82回大会
浦和学院2−1春日部共栄
右腕対決投げ合い

平成の名勝負は、浦和学院・坂元(元埼玉西武)、春日部共栄・中里(元巨人)という後にともにプロ野球の道に進んだ右腕同士の対決。魂のこもった投げ合いは、浦和学院の延長サヨナラ勝ちという劇的な結果となった。

試合はがっぷり四つの展開となった。坂元はスライダーを決め球に、中里は自慢の速球を低めに集め、お互いに譲らず1−1のまま延長戦に入った。決勝の延長戦は77年の川口工−熊谷商戦以来、23年ぶり。明暗が分かれた10回の攻防は見応え十分だった。

10回表、春日部共栄の攻撃。9回141球の力投を見せていた坂元は1死から奥、小柳に連続安打を許した。茂木は投ゴロに打ち取ったが、小林を四球で歩かせ2死満塁の大ピンチを迎える。打者は4番島田。

投じた171球目。島田が放った鋭い当たりは坂元の足を襲った。抜ければ中前打だったが、坂元が素早い反応でとっさに出したグラブに打球が吸い込まれた。投ゴロ。浦和学院は絶体絶命のピンチを脱し、春日部共栄は絶好機を逃した。

次打者だった中里はどんな気持ちで裏のマウンドに上がったのか。先頭打者は坂元というめぐり合わせ。坂元は四球を選び出塁する。しかし中里も踏ん張り、続く甲斐、榎本を打ち取り2死までこぎつけた。

ここから浦和学院が脅威の勝負強さを見せた。2番山ノ内がフルカウントから中前打でつないで2死一、二塁。続く丸山が中里の137球目の直球を捉えた。打球は中里の足元を抜け中前へ。二塁から坂元が本塁に向かって激走する。中堅手の島田も本塁へ好返球したが間一髪、坂元の生還が早かった。

両手を突き上げる坂元。その後ろでがっくり膝をつく中里。勝者と敗者の非情なコントラストだった。

全国屈指の右腕と言われた中里は最後まで甲子園と縁がなかった。この年の春日部共栄は全国でも十分通用する実力を秘めていたが、2年連続で決勝で敗れていた坂元の最後の夏に懸けた優勝への執念がそれを上回った。

2007年7月30日・県営大宮
第82回大会決勝
春日部共栄 000 001 000 0 =1
浦和学院  000 100 000 1X=2
【春】中里−足立
【浦】坂元−甲斐
▼試合時間 2時間30分

2014年8月7日 埼玉新聞掲載

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