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渡辺監督 ありがとうございました
管理人 /
2015-07-29 08:59:00
No.32762
さらば名将…横浜、有終Vならず 渡辺監督、今後は終身名誉監督に
甲子園春夏5度の優勝を飾った横浜の渡辺元智監督(70)が28日、51年間にわたる指導者生活に幕を下ろした。第97回全国高校野球選手権大会(8月6日から15日間、甲子園)の神奈川大会決勝で横浜は東海大相模と対戦し、0―9で敗れて準優勝。今夏限りでの勇退を発表していた渡辺監督の夏が終わった。甲子園監督通算勝利数3位タイの51勝を挙げた名将。涙を浮かべながら、グラウンドに別れを告げた。
教え子には「人生の勝利者たれ」と説き続けてきた。有終の美を甲子園出場で飾ることはできなかったが、戦いを終えた渡辺監督は、まさに「勝利者」として称えられた。ナインの手で3度胴上げされ、一塁側スタンドは「ありがとうございます」「お疲れ様でした」と描かれたメッセージボードで埋め尽くされた。
目頭が熱くなる。そして、東海大相模・門馬敬治監督を「神奈川のために相模が頑張らんといかんぞ」と励まして握手すると、涙がこぼれた。
「選手に感謝。その一言。実感はなくて、まだまだ続くのかなあと。家に帰って女房と一杯やったら実感湧くのかな」
指導歴51年で甲子園に27度出場。選手を自宅に住み込ませ、生活費はパチンコで補うほど苦しかった時代を乗り越えて73年センバツで初出場初優勝した。80年に愛甲を擁して夏の甲子園を初めて制し、98年には松坂らを軸に史上5校目の春夏連覇。熱を込めて選手と向き合い、時代に合った指導でプロ入りした教え子は50人を超えた。
一方、89年に胃潰瘍、04年には脳梗塞で倒れた。近年は腰痛やメニエール症候群に悩まされた。昨年限りで名参謀だった前部長の小倉清一郎氏が退任。「グラウンドで死んでもいいかなと思うこともあったが、選手はそれで幸せか、と。個人の欲求を優先してはいけない」。自らも5月に一線を退くと決めた。
ナインは甲子園に連れて行きたい一心でノーシードから勝ち進み、5回戦から3戦連続逆転勝ちで決勝へ。東海大相模に4投手をつぎ込んで食い下がったが、強力打線に屈した。泣き崩れる選手たちに、名将は「栄光より挫折。成功より失敗。大きな代償を無駄にしてほしくない」と温かく最後の言葉を贈った。
今後は終身名誉監督となり、グラウンドにも足を運ぶ意向だ。「(高校野球は)人生そのもの。多くの人脈、選手に恵まれた。(51年間は)あっという間。幸せでした」。3万の大観衆から万雷の拍手が降り注ぐ中、静かにユニホームを脱いだ。
2015年7月29日 スポーツニッポン掲載
Re: 渡辺監督 ありがとうございました
管理人 /
2015-07-29 09:07:00
No.32763
さよなら横浜・渡辺監督!全国制覇5度、松坂ら育てた名将/神奈川
第97回全国高校野球選手権大会神奈川大会決勝(28日、横浜0−9東海大相模、横浜)名将、力尽きる−。神奈川決勝で、甲子園春夏計5度優勝に導き、今夏で退任の渡辺元智監督(70)が率いる横浜(神奈川)が東海大相模に0−9で敗れた。監督就任48年目の名将はノーシードからの快進撃を支えたが、県下最大のライバルに屈し最後の指揮を終えた。それでも最後まで涙をみせなかった指揮官は今後、同校の終身名誉監督に就任する。
愛する地元・神奈川での最後の指揮。1968年秋の監督就任から48年目の夏は、よもやの0−9で終焉した。
「選手に感謝、そのひと言。昨夏、この春と甲子園に行けず、昨秋はコールド負けのチームがここまでやれた。最後が東海大相模というのは、原(貢=元監督、故人)さんを追いかけ、追いつきたい、と意地でやってきた因果関係で、感慨深いものがある」
表彰式後に選手に胴上げされた渡辺監督は、静かに振り返った。県下で最高のライバル同士の決戦。6度目の決勝対決を見ようと、開門時間(午前10時半)を30分早めた横浜スタジアムは、火曜日ながら午後1時5分に札止めの観衆3万人に膨れ上がった。
ラストゲームも渡辺流を貫いた。試合前は自らノックバットを持ち、選手にハッパをかけた。だが、体は悲鳴を上げていた。脳梗塞やメニエール病の疑いなどで指揮から離れた時期もあった。前立腺系の不安などから、平田徹部長(32)に後を託す形で5月上旬に勇退を決断した。
監督就任当初から現在まで心に秘めた思いがあった。打倒・江川卓(作新学院→法大→巨人)。72年秋の関東大会決勝で作新学院に零封負けし、高校球史に名を残す怪腕を倒すことが目標となった。73年のセンバツで初出場初優勝。「優勝で自信がつき、次は『打倒・江川卓』が強くする原点となった。松坂(大輔、現ソフトバンク)で春夏連覇(が最高の名誉)というかもしれないが、栄光より挫折、成功より失敗、勝利より敗北から学ぶことが多い」。就任当初は事務職員だったが、選手との時間を確保するため、監督業と並行して関東学院大の夜間部に通い教員免許(社会)を取得した。今後は終身名誉監督として、指導をすることもあるという。
「高校野球は自分の人生そのもの。東海大相模には、甲子園で神奈川の野球のためにがんばってほしい」
平成の怪物、松坂はじめ52人のプロ野球選手らを育てた名伯楽は、こう激励し、静かにノックバットを置いた。
★OBから贈る言葉
松坂らと98年の春夏連覇を経験したDeNA・後藤の話
「横浜高校にとって大きなものを残していただいた。まずはゆっくりしてもらい、また野球部の力になってもらいたい」
03年センバツで準優勝の同・石川の話
「本当にお疲れさまでした。ひとつひとつの言葉に重みがあった。感謝しています」
09年度卒業の同・筒香の話
「何とか甲子園に行ってほしかったが結果はしようがない。野球人の前に、ひとりの人間として感謝しています」
03年度卒業のヤクルト・成瀬の話
「勝っていれば理想的でしたが、お疲れさまでしたといいたい。本当に野球が好きな人。僕らOBの野球を見て、楽しんでほしい」
04年度卒業のロッテ・涌井の話
「結果は残念ですね。渡辺監督から教わったのは『目標がその日、その日を支配する』という言葉。いまでも実践しています」
11年度卒業の日本ハム・近藤の話
「礼儀に厳しく、野球以外のところでもいろいろと指導していただきました。今後もいい報告ができるように頑張ります」
渡辺 元智(わたなべ・もとのり)
1944(昭和19)年11月3日生まれ、70歳。神奈川県出身。旧名・元(はじめ)。横浜高では外野手で、神奈川大中退。65年から横浜高のコーチを務め、68年に監督就任。教職免許を取得し、社会科教諭も務めた。73年のセンバツで初出場初優勝。98年に松坂(現ソフトバンク)を擁して春夏連覇に導くなど、春3度、夏2度甲子園で優勝した。
2015年7月29日 サンケイスポーツ掲載
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甲子園春夏5度の優勝を飾った横浜の渡辺元智監督(70)が28日、51年間にわたる指導者生活に幕を下ろした。第97回全国高校野球選手権大会(8月6日から15日間、甲子園)の神奈川大会決勝で横浜は東海大相模と対戦し、0―9で敗れて準優勝。今夏限りでの勇退を発表していた渡辺監督の夏が終わった。甲子園監督通算勝利数3位タイの51勝を挙げた名将。涙を浮かべながら、グラウンドに別れを告げた。
教え子には「人生の勝利者たれ」と説き続けてきた。有終の美を甲子園出場で飾ることはできなかったが、戦いを終えた渡辺監督は、まさに「勝利者」として称えられた。ナインの手で3度胴上げされ、一塁側スタンドは「ありがとうございます」「お疲れ様でした」と描かれたメッセージボードで埋め尽くされた。
目頭が熱くなる。そして、東海大相模・門馬敬治監督を「神奈川のために相模が頑張らんといかんぞ」と励まして握手すると、涙がこぼれた。
「選手に感謝。その一言。実感はなくて、まだまだ続くのかなあと。家に帰って女房と一杯やったら実感湧くのかな」
指導歴51年で甲子園に27度出場。選手を自宅に住み込ませ、生活費はパチンコで補うほど苦しかった時代を乗り越えて73年センバツで初出場初優勝した。80年に愛甲を擁して夏の甲子園を初めて制し、98年には松坂らを軸に史上5校目の春夏連覇。熱を込めて選手と向き合い、時代に合った指導でプロ入りした教え子は50人を超えた。
一方、89年に胃潰瘍、04年には脳梗塞で倒れた。近年は腰痛やメニエール症候群に悩まされた。昨年限りで名参謀だった前部長の小倉清一郎氏が退任。「グラウンドで死んでもいいかなと思うこともあったが、選手はそれで幸せか、と。個人の欲求を優先してはいけない」。自らも5月に一線を退くと決めた。
ナインは甲子園に連れて行きたい一心でノーシードから勝ち進み、5回戦から3戦連続逆転勝ちで決勝へ。東海大相模に4投手をつぎ込んで食い下がったが、強力打線に屈した。泣き崩れる選手たちに、名将は「栄光より挫折。成功より失敗。大きな代償を無駄にしてほしくない」と温かく最後の言葉を贈った。
今後は終身名誉監督となり、グラウンドにも足を運ぶ意向だ。「(高校野球は)人生そのもの。多くの人脈、選手に恵まれた。(51年間は)あっという間。幸せでした」。3万の大観衆から万雷の拍手が降り注ぐ中、静かにユニホームを脱いだ。
2015年7月29日 スポーツニッポン掲載