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坂元弥太郎 情報
管理人 / 2015-08-13 17:42:00 No.32855
坂元弥太郎 21期
第二の人生。「弥太郎先生」に会ってきた

プロ野球選手にはユニホームを脱ぎ、「第二の人生」を迎えなくてはいけない瞬間が、必ず訪れる。ある日、うれしい着信があった。「野球スクールを開校したんです。一度、遊びに来ませんか」。声の主は西武担当時代に取材させていただいた、坂元弥太郎さん。いやいや。「弥太郎さん」って、ヘンな感じだな。親しみを込めていつも通り、「弥太郎君」と書かせていただく。弥太郎君が先生を務める野球スクール「アスリートプランニング・ベースボールワールド」に、行ってきた。

池袋から東武東上線に乗り換えて、みずほ台の駅からタクシーで1000円ほど。埼玉・三芳町にある「竹間沢室内練習場」に到着すると、快活な声が聞こえた。

弥太郎君は小学生のスクール生を相手に、打撃投手を務めていた。あの坂元弥太郎が、である。何だか、たいへん贅沢な風景に見えた。

「もう1球お願いします!」

「よーし、しっかり振り抜けよ!!」

弥太郎君は2013年オフに引退後、一度は会社勤めをしていた。オーダースーツの会社に勤務するサラリーマンとして、自らの人脈をたどっては必死に営業を頑張っていた。その姿にグッと来て、私もグレーのスーツを発注させていただいた(たいへん気に入って、テレビ出演の際などに着る『勝負服』にしている)。弥太郎君から衝撃の言葉を聞いたのは、確か注文したスーツを納品してくれた、まさにその時だった。

「カトーさん、自分はやっぱり野球にかかわる仕事がしたくて。会社、辞めることにしました」

営業の仕事で西武ドームや東京ドーム、横浜スタジアムなどを訪れるたびに、野球人としての血が騒いだのだという。やはり俺には、野球しかない。

浦和学院3年だった2000年夏の甲子園1回戦・八幡商戦で当時の最多タイ記録となる19奪三振をマーク。プロではヤクルト、日本ハム、横浜、西武と渡り歩いた。これまでの経験や培ったノウハウを、未来がある少年たちに伝えていきたい−。

試行錯誤の中で5月20日、三芳町のこの地で同校を開校することになった。メニューはバッティング、ノック、ブルペンでのピッチングから、体幹トレーニングと進んでいく。少人数の生徒たちに手取り足取り、面倒見のよい指導が印象的だ。元プロ野球選手からこんなに熱心に教えてもらえたら、野球が好きにならずにはいられないだろう。コーチングはやさしく親切で、弥太郎君の人柄がにじみ出ていた。

弥太郎君は言う。

「その子の能力が今、どれだけあるのか。それを見極めた上で、指導に臨むようにしています。今の能力を把握して、それからどのレベルを目指すのかという将来を踏まえた上で、練習の『強度』を設定しています。軟式でも硬式でも、やりながら噛み砕いて、子供たちに合うようにを心がけています」

生徒たちは普段、それぞれの少年野球チームに所属している。その上でさらにうまくなるために、このスクールで鍛えている。学校に通って授業を受けながら、さらなる学力向上のために学習塾に通うようなものですよ、と弥太郎君は話してくれた。

ところで、弥太郎先生の指導ってどう? 教え子さんに聞いてみた。

まずは小学6年生・吉津尊くんの話から。「自分はピッチャーをしてるんですが、すごくプラスになります。教えていただいて、球が走るようになり、コントロールも安定するようになりました。甲子園でのビデオも見せてもらいました(笑)」

同じく6年生の長嶺佑海くんはこう語ってくれた。

「いろんなトレーニングを分かりやすく教えてくれて、すごい人だなあと思います。スクールはいいライバルに出会えて、すごく楽しい。練習は大変だけど、うまくなると思うと、乗り越えられます」

生徒に「やらせる」のではなく、一緒に汗を流す指導法こそが「弥太郎流」なのだろう。弥太郎君が楽しくコーチングしているからこそ、門下生の皆さんも楽しくトレーニングに集中できるのだと感じる。いつか教え子の中から、弥太郎君のように甲子園を沸かせるようなスターが出てきたら、素晴らしいと思う。

第二の人生でも「全力投球」を続ける弥太郎君を、これからも応援していきたい。

【参考】「アスリートプランニング・ベースボールワールド」ホームページ http://www.apbbw.com/

報知高校野球デスク 加藤弘士記者のBaseball Boogieより転載

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