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土井杏利 情報
管理人 / 2015-09-08 08:28:00 No.33262
土井杏利 28期 現:CHAMBERY
プロハンドボーラー 強豪フランスでプレーの土井杏利

コンマ何秒、空中でGKの動きを読み、目でだまし、逆の方向にシュートを決める。たまらない快感が全身を貫く。プロハンドボーラー、土井杏利。フランス人の父と日本人の母との間にパリで生まれ、千葉県で育った25歳は2013年6月、日本人で初めて、五輪連覇中の強豪国フランスの1部リーグ、シャンベリーと契約した。ケガで一度は競技を離れた男のハンドボール人生に迫った。

「小さいころは授業を抜け出し、走り回ってました。(先生に)怒られても全然めげないで。自分で言うのも何ですけど、そういうクソガキでした」。そんな杏利少年は千葉県富里市立日吉台小3年のとき、ハンドボール部員だった兄と妹の様子を見に行った。午後のサッカー教室に行くはずが、そのまま輪に加わると、“フット”ではなく、“ハンド”に心を奪われた。富里北中では同期がおらず、「『僕と愉快な仲間たち』って感じでした」と懐かしむ。

その後は浦和学院、日体大と強豪校へ。実業団、いずれはフランスでプレーする将来を思い描いていた大学4年の2011年、左膝を故障した。注射を打ちながらプレーしたシーズン後、医師から引退勧告を受ける。実業団からの誘いは断らざるを得なかった。「ハンドボールのない人生なんて…」。泣きに泣いた。

12年夏。就職のための言語習得をと、フランスへ渡った。日本のホンダでもプレーした元同国代表、憧れのストックランが所属したクラブがある街、シャンベリー。勉強と試合観戦の日々を送っていたところ−。

「膝の痛みがなくなっていたんですよ。病院に行ってないんです。詳細を調べると、奇跡でなくなっちゃう(笑)」

練習をしたくてたまらない。門前払いを食らいながらも、シャンベリーでトップに次ぐ、若手のアマチュアチーム(仏3部)に加入。しばらくすると、監督から試合出場を打診され、選手登録が完了した12月、再び試合のコートに立った。

翌13年5月にシーズンが終わり、帰国を考えていた6月のある日、携帯電話が鳴った。「マネジャーから『プロ契約だから』って軽い電話でした(笑)」。フランス代表を抱えるビッグクラブとの契約。体が震えた。

攻守の要、バックというポジションを長く務めてきた。契約したのは、経験のない左ウイング。バックよりゴールに近い攻撃的な位置だ。2メートル、100キロ超の選手もいるリーグでは、178センチ、74キロは小柄。リーグトップクラスのスピードと瞬発力を買われての抜てきだった。

ところが、迎えた新シーズン、練習はプロと一緒でも、試合は3部のまま。不慣れなポジション、1部で出られないもどかしさ、加えて仲間からのアジア人蔑視発言も続いていた。悪気はないと分かっていても、傷ついた。「究極のポジティブ思考」と笑う男が、誰にも相談できずに迎えたクリスマス休暇。「2週間、笑え、笑え、笑えと唱えていました」。涙ぐみそうになりながら、言葉を続ける。

「『心の底から楽しめないもののために、頑張ることはひどくむなしい。でも、いま自分が弱いということは、これから強くなる楽しみがあるということ。苦しみを避けられないのであれば、むしろ、それを楽しめ』。そう言ってました。小中学校時代は弱小でしたが、ずっと楽しくて続けていました。だから、『いま楽しめないで、どうする?』って。小中の時間がなければ、今の自分はないんです」

自己流メンタルケアで苦境を乗り切ると、徐々に1部で出られるようになった。それまでパスをしていた場面でも失敗を恐れずにシュートを放ち、積極的な姿勢を前面に出した。翌14〜15年シーズンは62得点、シュート決定率(75・61%)はリーグ全体6位、ポジション別トップだった。

波瀾(はらん)万丈の競技人生。帰国時に開くハンドボール講習会で、子供たちや指導者に必ず話すことがある。

「人生はチャレンジ。何が人生を丸々変えるか分からないし、(膝の)ケガですら幸運だと思っています。チャレンジとは、新しい世界に飛び込むこと。もちろん怖いし、その先には絶対に苦しみが待っているんです。そのときこそ、楽しさを自分なりに見いだしてくださいって、伝えたいですね」

取材が終わるころ、フランスで暇な時間に何をしているのか尋ねた。「一時期、アコーディオンを習っていました」。ホームパーティーで自ら演奏し、子供のころの社交ダンス経験を生かして踊ると言って笑う。

「今度、一緒に踊りに行きます?」。底抜けと言ったら失礼か。でも、とても晴れやかな気分にしてくれる男である。

2015年9月8日 中日スポーツ掲載

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