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野球部 情報
管理人 / 2017-08-28 12:16:00 No.38484
聖地で花咲く 攻撃野球の道 歴史の結晶

1県1代表制になる前の第31回大会(1949年)に熊谷が県勢初出場を果たしてから68年。99回目の選手権で花咲徳栄がかなえた初優勝は、県内高校野球界の歴史の結晶でもある。

「守備力重視」「投手力重視」。埼玉の高校野球はそう言われてきた。

投手中心の守備の野球は安定感がある。花咲徳栄も、従来は守備力と機動力を生かした野球を標榜(ひょうぼう)してきた。だが、それだけでは勝てなかった。初出場の第83回大会(2001年)、第93回大会(11年)と、いずれも11失点で大敗。過去2大会は優勝校に敗れ、攻撃力の重要性を痛感した。
 
そんな中、13年には浦和学院が選抜大会を制した。5試合中3試合で2桁得点を挙げ、全国でも通用する攻撃力を証明。何より「(県内の)多くの学校が『頂点に立てる』と認識した」と小山友清・県高野連専務理事は振り返る。

こうした歴史を経て、花咲徳栄が「本気で日本一を目指した」ことも、初優勝に欠かせない要因だったと小山さんはみる。かつての県勢は「甲子園出場」を目標にしていた学校が多かった。第57回大会(1975年)で4強入りした上尾の先頭打者だった斎藤秀夫・県高野連常務理事も「前年に全国に初出場したばかりだったので『連続出場』を目標にしていた」と話す。

だが千丸剛主将(3年)が「優勝するまで笑うことはない」と語っていたように、花咲徳栄の選手たちは甲子園に出ることではなく、その頂点を現実的な目標にしていた。

「花咲徳栄の優勝は県内の競争心から生まれたもの。優勝に向けて全てを逆算していた」。埼玉大会決勝で苦杯を喫した浦和学院の森士(おさむ)監督はたたえる。蛭間拓哉主将(2年)も「ライバルが全国制覇して、自分たちにもチャンスはあると確信した」。同校の選抜優勝と同じ刺激を、今度は花咲徳栄が県内に与えた。

来夏は埼玉から2校が出場する第100回記念大会。県内でしのぎを削り、来夏から新しくなる深紅の大優勝旗を、再び埼玉に持ち帰ってきてもらうことを期待したい。

2017年8月28日 朝日新聞埼玉版掲載

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