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野球部 情報
管理人 /
2018-01-19 17:35:00
No.39222
ありがとう夏100回これから
2000年第82回1回戦 浦和学院−八幡商
19K 人生切り開く
元浦和学院 坂元弥太郎 21期
★まず外角中心 スイングを見ていけるいけるって
たくさん三振を取れているという感覚は、浦和学院の坂元弥太郎にはなかった。
「練習試合でも、大体10個とか11個くらいは取っていたんです。だから、この日もすんごい取れているとは思わなかった」
2000年8月11日、坂元は八幡商(滋賀)との1回戦で、無意識のうちに三振を積み上げていった。
相手のことをあまり知らない1回は、いつも通り、慎重に入った。先頭打者にいきなり四球。「まずは外角を中心にバッターの様子や、どういうスイングをしてくるのかを見る。必ず、慎重に入るんですよ」
次打者がスリーバント失敗となり、1つ目の三振を記録すると、2死二、三塁では5番打者を空振り三振に。投げていくうちに、相手打線との力関係も分かっていく。「これぐらいの感じでいけるいけるって」。徐々にエンジンがかかっていった。
重圧や優勝への強い思いは、正直、なかった。やっとの思いでつかんだ甲子園をただ楽しんでいた。
この夏、埼玉の優勝候補は断トツで春日部共栄だった。秋のドラフトで中日から1位指名を受ける中里篤史を擁し、打線も強力。「県勢初の全国制覇も狙える」と評されたチームを決勝で延長戦の末に2−1で破り、4年ぶりの出場を決めたのが浦和学院だった。
「中里くんと投げ合って共栄に勝てたっていうのは、自分の中ではかなりの自信にはなりました。それだけの思いでつかんだ甲子園だったから、とにかくマウンドを楽しみたいというのがあった」
そしてもう1つ。胸にあったのは、母 ・和子さんへの思いだ。
和子さんは坂元の高校入学直前にがんで亡くなった。小さい頃から母に誓っていた甲子園出場。ユニホームのズボンのポケットには遺品のお守りを忍ばせ、スタンドには父の良也さんが遺影を持って見守った。
武器となったのは、縦と横に大きく曲がる2種類のスライダーだ。
「この辺から落とせば大丈夫、とか試合のなかでつかんでいけた」。八幡商もこの対決に向けて、「打席の中で投手寄りに立って、曲がりきる前に打つ」と徹底したスライダー対策を練っていたが、当たらない。
7回の3つ目のアウトから7者連続三振で試合終了。19奪三振は、実に54年ぶりの大会タイ記録(当時)となった。
2回戦の柳川(福岡)戦でも、敗れはしたが16奪三振。一躍、坂元の名は全国区になり、秋のドラフト4位でヤクルトから指名された。先発、救援のどちらもこなせる投手として、日本ハム、横浜、地元の西武と4球団で計13年間プレーした。
★試行錯誤の13年
子どもたちに伝える あきらめない心
飛躍したあの夏を坂元はこう振り返る。「運命じゃないですけど、大きくプロへの道が開けたのが、あの2試合だった。プロ野球選手になりたいと思って、一生懸命やっていたけど、あれがなければ、大学や社会人を経由していたかも分からないですね」
2013年シーズンで現役を引退し、15年には「アスリートプランニング」に入社。新規事業として野球スクールを開校し、埼玉県三芳町で幼稚園児から小・中学生を対象に野球を教えている。
もっとも伝えたいのは「あきらめない心」だ。「僕自身、プロで何年もできるような選手ではなかったけど、強い思いで試行錯誤しながらやった結果が13年だった。子どもたちにも、頑張れば、道は開けるんだよって、経験談として伝えてあげたい」
伝えることの難しさを痛感する日々。「ずっと勉強ですね」。年男で5月に36歳。バットを振る教え子たちを見つめる目は、厳しくもあたたかい。
坂元弥太郎
1982年生まれ。埼玉県川口市で育つ。
82回大会の柳川戦は16奪三振ながら1−5で敗れた。ドラフト4位でヤクルト入団。
2018年1月19日 朝日新聞掲載
Re: 野球部 情報
管理人 /
2018-01-19 18:03:00
No.39223
「優勝なし」打ち壊した花咲徳栄 彩る球児たち〜100回
100回大会を目前に、ついに深紅の大優勝旗がもたらされた。
99回大会(2017年)。埼玉大会を3連覇して挑んだ花咲徳栄が全国の舞台で勝ち上がった。
過去2年、東海大相模(?奈川)、作新学院(栃木)とその年の優勝校に敗れた経験から得た教訓は「打てないと勝てない」。冬場は重さ10〜15キロのハンマーを振り下ろすトレーニングで体幹や手首を鍛え、長打力が格段に増した。
広陵(広島)との決勝は16安打で14得点。「優勝なし」という埼玉の負の歴史を、文字通り打ち壊した。
「公立王国」から、私学の戦国時代へ。埼玉の勢力図は、この30年あまりで大きく変わった。
古くは熊谷、大宮。そして、1970年〜80年代前半までは熊谷商や上尾などの公立勢が覇権を争ったが、67回大会(85年)で立教(現・立教新座)が県内の私学として初出場を果たすと、翌年には浦和学院が初出場で4強入りする快進撃を見せた。
78年開校の浦和学院を強くしたのは野本喜一郎。上尾の監督を長く務めた名将が移り、2年半で甲子園出場を決めた。しかしのちにプロ野球西武などで活躍する鈴木健が入場行進した開会式の8月8日、膵臓出血で亡くなった。
ここから埼玉は80年開校の春日部共栄や、82年開校の花咲徳栄など、私学がしのぎを削る時代へ突入する。
浦和学院に続き、私学で夏の甲子園出場を果たしたのが春日部共栄だ。監督は47回選抜大会(75年)で高知の選手として優勝した本多利治。日体大を卒業してすぐの80年春、春日部共栄の初代監督に就いた。
高知で学んだ「足を使って少ない好機をものにし、守る」という野球で、73回大会(91年)に初出場。2年後には2年生左腕の土肥義弘=元西武など=らを擁して全国準優勝した。
浦和学院で野本の遺志を継いだのは上尾時代の教え子、森士だ。91年27歳の若さで監督に就き、翌92年春の選抜では、いきなりの4強入りを果たした。
他校も黙ってはいない。98年には強打者の大島裕行=元西武=がいた埼玉栄、99年には聖望学園が鳥谷敬=阪神=らを擁して初出場。2001年には岩井隆監督が就任した花咲徳栄、08年には本庄一が初出場するなど次々と私学が台頭した。
一方で公立の出場は2校が出場した80回記念大会(1998年)の滑川(現・滑川総合)が最後。2006年に鷲宮が剛腕増渕竜義=元ヤクルトなど=の奮闘で決勝まで進んだが、浦和学院に跳ね返された。
13年に浦和学院が強力打線で選抜を制覇。その浦和学院とともに頭一つ抜け出した存在となった花咲徳栄が、17年に県勢初の全国制覇を遂げた。47都道府県で28番目となる栄冠だった。
2018年1月19日 朝日新聞掲載
Re: 野球部 情報
管理人 /
2018-01-19 18:20:00
No.39224
甲子園ベストゲーム47 埼玉 1915〜2018年
1位 浦和学院10−11仙台育英(宮城)
2013年 95回1回戦
春優勝の浦和学院はエース小島が立ち上がりから乱調。9回途中に降板直後、救援投手がサヨナラ打を浴びた。
2位 浦和市立7−3宇部商(山口)
1988年 70回準々決勝
延長11回に一挙4得点で勝ち越し。出場校中最低打率。自称「貧打のチーム」の浦和市立が初出場で4強進出。
3位 春日部共栄2−3育英(兵庫)
1993年 75回決勝
春日部共栄は2年生エース土肥を擁し、決勝進出。同点の8回2死満塁と攻めたが、全国制覇に一歩及ばす。
4位 上尾2−3浪商(大阪)
1979年 61回1回戦
牛島−香川の浪商バッテリーからリードを奪った上尾だが、9回に牛島に同点2ランを浴び、延長で屈する。
※5位 浦和学院2−1八幡商(滋賀)
2000年 82回1回戦
浦和学院の本格派左腕、坂元が当時の大会タイ記録となる19奪三振。7回2死から7者連続三振で締めくくる。
6位 浦和学院4−0高知商
1986年 68回準々決勝
鈴木健が本塁打し、浦和学院が初出場で4強入り。開会式当日に他界した野本前監督を弔う。埼玉私学時代の到来。
7位 上尾5−4東海大相模(?奈川)
1975年 57回準々決勝
前年初出場を果たした上尾の快進撃。準々決勝で原辰徳を擁する東海大相模から8回に3点を奪って逆転勝ち。
8位 埼玉栄5−4沖縄水産(沖縄)
1998年 80回1回戦
初出場の埼玉栄は1点を追う7回、2年生スラッガー大島が大会屈指の右腕新垣から中堅右に逆転2点本塁打。
9位 熊谷商13−12平安(京都)
1970年 52回2回戦
延長10回に2点を奪われた熊谷商が3点を取り返して逆転サヨナラ。両チーム計40安打の打撃戦を制した。
10位 熊谷4−0県和歌山商(和歌山)
1951年 33回準決勝
2試合連続完封の熊谷・服部がノーヒットノーランを達成。埼玉勢として初めて進んだ決勝は、平安に敗れた。
2018年1月19日 朝日新聞掲載
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2000年第82回1回戦 浦和学院−八幡商
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元浦和学院 坂元弥太郎 21期
★まず外角中心 スイングを見ていけるいけるって
たくさん三振を取れているという感覚は、浦和学院の坂元弥太郎にはなかった。
「練習試合でも、大体10個とか11個くらいは取っていたんです。だから、この日もすんごい取れているとは思わなかった」
2000年8月11日、坂元は八幡商(滋賀)との1回戦で、無意識のうちに三振を積み上げていった。
相手のことをあまり知らない1回は、いつも通り、慎重に入った。先頭打者にいきなり四球。「まずは外角を中心にバッターの様子や、どういうスイングをしてくるのかを見る。必ず、慎重に入るんですよ」
次打者がスリーバント失敗となり、1つ目の三振を記録すると、2死二、三塁では5番打者を空振り三振に。投げていくうちに、相手打線との力関係も分かっていく。「これぐらいの感じでいけるいけるって」。徐々にエンジンがかかっていった。
重圧や優勝への強い思いは、正直、なかった。やっとの思いでつかんだ甲子園をただ楽しんでいた。
この夏、埼玉の優勝候補は断トツで春日部共栄だった。秋のドラフトで中日から1位指名を受ける中里篤史を擁し、打線も強力。「県勢初の全国制覇も狙える」と評されたチームを決勝で延長戦の末に2−1で破り、4年ぶりの出場を決めたのが浦和学院だった。
「中里くんと投げ合って共栄に勝てたっていうのは、自分の中ではかなりの自信にはなりました。それだけの思いでつかんだ甲子園だったから、とにかくマウンドを楽しみたいというのがあった」
そしてもう1つ。胸にあったのは、母 ・和子さんへの思いだ。
和子さんは坂元の高校入学直前にがんで亡くなった。小さい頃から母に誓っていた甲子園出場。ユニホームのズボンのポケットには遺品のお守りを忍ばせ、スタンドには父の良也さんが遺影を持って見守った。
武器となったのは、縦と横に大きく曲がる2種類のスライダーだ。
「この辺から落とせば大丈夫、とか試合のなかでつかんでいけた」。八幡商もこの対決に向けて、「打席の中で投手寄りに立って、曲がりきる前に打つ」と徹底したスライダー対策を練っていたが、当たらない。
7回の3つ目のアウトから7者連続三振で試合終了。19奪三振は、実に54年ぶりの大会タイ記録(当時)となった。
2回戦の柳川(福岡)戦でも、敗れはしたが16奪三振。一躍、坂元の名は全国区になり、秋のドラフト4位でヤクルトから指名された。先発、救援のどちらもこなせる投手として、日本ハム、横浜、地元の西武と4球団で計13年間プレーした。
★試行錯誤の13年
子どもたちに伝える あきらめない心
飛躍したあの夏を坂元はこう振り返る。「運命じゃないですけど、大きくプロへの道が開けたのが、あの2試合だった。プロ野球選手になりたいと思って、一生懸命やっていたけど、あれがなければ、大学や社会人を経由していたかも分からないですね」
2013年シーズンで現役を引退し、15年には「アスリートプランニング」に入社。新規事業として野球スクールを開校し、埼玉県三芳町で幼稚園児から小・中学生を対象に野球を教えている。
もっとも伝えたいのは「あきらめない心」だ。「僕自身、プロで何年もできるような選手ではなかったけど、強い思いで試行錯誤しながらやった結果が13年だった。子どもたちにも、頑張れば、道は開けるんだよって、経験談として伝えてあげたい」
伝えることの難しさを痛感する日々。「ずっと勉強ですね」。年男で5月に36歳。バットを振る教え子たちを見つめる目は、厳しくもあたたかい。
坂元弥太郎
1982年生まれ。埼玉県川口市で育つ。
82回大会の柳川戦は16奪三振ながら1−5で敗れた。ドラフト4位でヤクルト入団。
2018年1月19日 朝日新聞掲載