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野球部 情報
管理人 /
2018-03-13 17:13:00
No.39376
【高校野球 新・名将列伝】悲願センバツVで「無冠の帝王」の汚名返上 浦和学院・森士監督
★浦和学院・森士監督(1)
“汚名”を振り払った。2013(平成25)年春。森士(もり・おさむ、53)は、浦和学院を率いて春夏の甲子園通算18大会目の指揮で、ついに頂点に立った。
決勝で済美(愛媛)に完勝し、直後のインタビューで「この試合を1分、1秒でも長く楽しみたかった」といって目を潤ませた。
浦和学院はそれまで長く「無冠の帝王」と呼ばれていた。それは、大舞台で勝てない森の采配を批判する声でもあった。
1991(同3)年に27歳で浦和学院の監督となった森は、いきなり翌年春に甲子園初出場を果たし4強入り。華々しいスタートを切った。だが、「勉強不足で荷が重かった」と振り返るように、以後は早期敗退が続く。
県外からも有望選手が集まるチーム。常に戦力はハイレベルで、甲子園に出る度に優勝候補の一角に挙げられながら、期待を裏切り続けた。特に2005(同17)年春から11年(同23)年春までに出場した5大会はすべて初戦で姿を消した。
「試合をするのが不安でしょうがなかった。監督自身がそうだから、選手もそうなってしまっていた」
そして、13年のセンバツ開幕前。自分が18大会目の甲子園采配であり、大会出場監督中最多であることを知った。「これは、いよいよ優勝しなくてはいけない。勝つんだ、と強く思った」。不安は消え、作戦もことごとく好結果を生んだ。
その13年に森が見た初夢は、甲子園大会で決勝進出を決めインタビューを受けるシーンだった。その時は決勝戦の結末を見ることなく目覚めたが、3カ月後に「初優勝」という最高の現実が待っていた。(敬称略) =つづく
2018年3月13日 zakzak掲載
Re: 野球部 情報
管理人 /
2018-03-14 08:27:00
No.39381
【高校野球 新・名将列伝】「選手諦め指導者として…」野球人生の原点に 浦和学院・森士監督
★浦和学院・森士監督(2)
2013(平成25)年の春に甲子園優勝監督の仲間入りした森士(もり・おさむ、53)だが、選手時代は不遇だった。
高校−大学を通じて公式戦の出場は1度もなく、背番号ももらえなかった。「私は、選手としては失敗作なんです」
1964(昭和39)年に埼玉県浦和市(現さいたま市)に生まれた森は、小5の夏に浦和球場で高校野球を観戦。勝って引きあげる上尾の監督・野本喜一郎とナインの背中を追いかけた。そのオーラに圧倒された。
上尾は当時、公立校ながら埼玉県高校野球のトップに君臨していた。前年の夏に甲子園出場。森が背中を追いかけたその夏は連続出場し、準々決勝で原辰徳(前巨人監督)のいた東海大相模(神奈川)を破った。指揮する野本は関東地区で屈指の名将として全国に名前が知れ渡っていた。
「すごいチームだった。野本監督の下で野球がしたかった」
勉強の道か、野球の道か迷った森は、「野球」を選ぶ。親の反対も押し切った。中3の時にエースとしてチームを全国大会3位に導いた実績も自信となり、野本野球の門をたたいた。
だが、他の選手と競争さえできない3年間だった。肘や肩の故障が多発。3年時にチームは春の甲子園に出場したが、スタンドで応援に声をからすしかなかった。
選手として諦めきれずに東洋大に進んだものの、ここでも故障に泣いた。大学1年が終わる頃、森は指導者の道に目を向けることになる。
「選手として駄目だったけど、立派な指導者になろう、と…。あの時が野球人生の原点だった」
野本は、森が指導者を目指し始めたことを人づてに聞いた。森が大学2年のとき、上尾から浦和学院に移籍した恩師は、「俺を手伝ってくれないか」と声をかけた。
「森をコーチに」。それが“遺言”となった。(敬称略)=つづく
2018年3月14日 zakzak掲載
Re: 野球部 情報
管理人 /
2018-03-15 15:51:00
No.39391
【高校野球 新・名将列伝】コーチ就任へ導いた恩師の“遺言” 浦和学院・森士監督
★浦和学院・森士監督(3)
森士(もり・おさむ、53)の埼玉・上尾高時代の監督である野本喜一郎は、指導者への道もつけてくれた恩人だ。野本がいたから、今の森がある。
野本はプロ野球出身。投手として西鉄や近鉄で4年間プレーし通算18勝を挙げた。引退後は銭湯を営んでいたが、上尾の監督となって名将の冠を得た。
県立校の上尾を22年間指揮して春夏6度の甲子園出場。1975(昭和50)年夏の準々決勝で原辰徳(前巨人監督)を擁する東海大相模(神奈川)を破ったり、79(同54)年夏にはドカベン香川−牛島のバッテリーの浪商(大阪、現大体大浪商)と名勝負を展開するなど、高校球史に名前を残す。
森は「技術うんぬんよりも、人と人のふれ合いを大切にした。この人についていけば大丈夫という信頼感があった」と振り返る。あの時代には珍しく、選手の自主性を重んじる監督だった。
野本は森が東洋大2年の時に浦和学院に移った。森が選手を諦めて指導者を目指すことを知り、「俺の下で手伝ってくれないか」と声をかけた。「私の監督生活で一番、練習した選手が森だった」と周囲には話していた。
これで浦和学院コーチへの路線が敷かれたが、4年時に野本が病死してしまう。
86(同61)年夏のことだった。県大会前に体調を崩して入院した野本は、育てたチームが甲子園初出場を勝ち取ったのに、采配はできず、開会式が行われた8月8日に64歳で亡くなった。
野本から直接“監督学”を伝授されることはなかった。だが、森はその年の11月、大学在学中ながらコーチとして呼ばれた。
「浦和学院のコーチになることが野本さんの遺言のようになった。感謝しています。学校は違うけど、同じ師のもとに集まった人間として、後輩たちの手助けがしたかった」
森は東洋大卒業後に教員免許を取り、同校の教師に。監督には5年間のコーチ生活を経て就任した。野本の門下生は、プロだけではなくアマ球界の指導者としても活躍している。桐生第一(群馬)の福田治男は99(平成11)年夏に全国制覇を達成した。森は、2人目の甲子園優勝監督となったのである。(敬称略)=つづく
2018年3月15日 zakzak掲載
Re: 野球部 情報
管理人 /
2018-03-16 16:03:00
No.39399
【高校野球 新・名将列伝】100人超の大所帯も、メンバー外の選手に“肩たたき”しない 浦和学院・森士監督
★浦和学院・森士監督(4)
毎年4月、多くの新入部員を迎える監督の森士(もり・おさむ、53)が必ず話すことがある。
「全国の4000を超える高校の中から、私が監督をしている高校を選んでくれてありがとう」
広陵(広島)を率いる中井哲之も、新入部員に同じ意味の言葉をかける。だが、続きが違う。
「私は、君たちが甲子園で勝つために最善を尽くす。君たちも、これだけは約束してほしい。高校野球生活の最後の1分、1秒までレギュラーを目指してベストを尽くしてほしい。最後まで戦ってほしい」
100人を超える大所帯。県外からも有望な選手が集まってくる。競争は激しく、背番号をもらえるのはほんの一部。入学して早々とベンチ入りを諦めてしまう選手がいたとしても、責められない状況である。
だが、森はレギュラーを固定した後でも、選手全員に同じ練習をさせる。力量で大きく劣る選手がいたとしても、マネジャーなど裏方への転向を促す“肩たたき”もしたことがない。最後までベンチ入りという目標に向かって努力させるから、途中で退部する選手はほとんどいない。
2013(平成25)年に甲子園制覇したのは、選手全員に投票でベンチ入りメンバーを選ばせたチームだった。
現役時代、高校−大学を通じて背番号をもらえなかった森は「私はメンバー外の選手だった。しかし、指導者としてはメンバーになれている。生徒たちにも、一人の男として、人生のメンバーになってほしい」と語る。監督生活27年間を通じての一貫した思いだ。(敬称略)=終わり
2018年3月16日 zakzak掲載
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★浦和学院・森士監督(1)
“汚名”を振り払った。2013(平成25)年春。森士(もり・おさむ、53)は、浦和学院を率いて春夏の甲子園通算18大会目の指揮で、ついに頂点に立った。
決勝で済美(愛媛)に完勝し、直後のインタビューで「この試合を1分、1秒でも長く楽しみたかった」といって目を潤ませた。
浦和学院はそれまで長く「無冠の帝王」と呼ばれていた。それは、大舞台で勝てない森の采配を批判する声でもあった。
1991(同3)年に27歳で浦和学院の監督となった森は、いきなり翌年春に甲子園初出場を果たし4強入り。華々しいスタートを切った。だが、「勉強不足で荷が重かった」と振り返るように、以後は早期敗退が続く。
県外からも有望選手が集まるチーム。常に戦力はハイレベルで、甲子園に出る度に優勝候補の一角に挙げられながら、期待を裏切り続けた。特に2005(同17)年春から11年(同23)年春までに出場した5大会はすべて初戦で姿を消した。
「試合をするのが不安でしょうがなかった。監督自身がそうだから、選手もそうなってしまっていた」
そして、13年のセンバツ開幕前。自分が18大会目の甲子園采配であり、大会出場監督中最多であることを知った。「これは、いよいよ優勝しなくてはいけない。勝つんだ、と強く思った」。不安は消え、作戦もことごとく好結果を生んだ。
その13年に森が見た初夢は、甲子園大会で決勝進出を決めインタビューを受けるシーンだった。その時は決勝戦の結末を見ることなく目覚めたが、3カ月後に「初優勝」という最高の現実が待っていた。(敬称略) =つづく
2018年3月13日 zakzak掲載