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野球部 情報
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2018-06-25 12:26:00
No.40378
100年の心 白球がつなぐ絆
彩の名将・野本喜一郎(中)
★泰然自若 背に学ぶ 福田治男桐生第一監督
野本の教え子で監督として全国高校野球選手権を制覇したのが、桐生第一(群馬)の福田治男。同校を率いて34年目になる福田は春夏合わせて14度の甲子園出場に導いた名将だ。4度目の夏の甲子園挑戦となった1999年に、エース左腕正田樹(現独立リーグ・愛媛)を擁し、群馬県勢として初の深紅の優勝旗を手にした。
桐生市出身の福田は中学2年の時、原辰徳のいた東海大相模(?奈川)に憧れた。その相模を準々決勝で倒したのが上尾だった。
「隣県にこんなに強い学校があるんだ」。胸が高鳴った。翌年、縁があり練習に参加。「これくらいできれば上尾に来ても大丈夫」と野本に声を掛けてもらい、うれしかったのを覚えている。
甲子園に行きたくて、野本に野球を教わりたくて上尾に越境入学。当時のOB会長宅で3年間、下宿生活を送った。
主将を務め、3年の夏にはエース右腕・仁村徹(現楽天スカウト部副部長)らとともに1番遊撃手で甲子園出場を果たし、夢を実現させた。牛島−香川バッテリーが有名だった浪商(大阪)と激闘の末敗れたが、今でも名勝負として語り継がれている。
しかし、その1年前。上尾は春季県大会を連覇し、夏の第1シードが決まっていたにもかかわらず、校内トラブルが暴力事件と報じられ、大会の出場を辞退せざるを得なくなった。対外試合も6カ月禁止。秋季大会も棒に振った。それは翌年の選抜大会も出られないことを意味していた。
当初は目標を失いかけ、気の抜けた部分もあった。それでも「ここからしっかりこらえて汚名返上しよう、耐えて我慢して悔しさをぶつけようという野本監督の姿勢は崩れなかった」と福田。平日は平常通り、土日は実戦感覚を失わないように紅白戦を黙々と行い解禁の時に備えた。翌春は県を制し関東大会準優勝。夏も県を勝ち抜いた。
福田は、野本が浦和学院の監督に就任した年に1年間だけコーチという立場で接した。この1年がその後の指導者人生につながっていると自覚している。選手時代には聞けなかった「こういう風に教えたらいい」という具体的なアドバイスを度々もらったのは財産だ。
そして、何よりも「我慢することの大事さを教わった」と力を込める。
「結果が悪くても、指導者は指導者として、毅然と子供たちに接しなければいけない」
選んだ恩師と同じ道。攻撃型から守備力重視のチームへ、練習時間も創部当初よりは長くし、しつけの面でも厳しさを求めた。試行錯誤を繰り返しながら、たどり着いた夏の甲子園の頂。スタイルは変化しながらも「我慢」「毅然」。胸に刻む思いは今も変わらない。
福田にとって、野本はどんな存在なのか。「神様みたいな人ですね。ユニホームを着た時の紳士な姿勢。汚い言葉を使わずに、生徒を見守っている。恐怖感もないし、ベンチにいると安心してプレーできていた。まねはできないけど、高校野球のお手本であり、野球人としてもお手本です」=文中敬称略
2018年6月25日 埼玉新聞掲載
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彩の名将・野本喜一郎(中)
★泰然自若 背に学ぶ 福田治男桐生第一監督
野本の教え子で監督として全国高校野球選手権を制覇したのが、桐生第一(群馬)の福田治男。同校を率いて34年目になる福田は春夏合わせて14度の甲子園出場に導いた名将だ。4度目の夏の甲子園挑戦となった1999年に、エース左腕正田樹(現独立リーグ・愛媛)を擁し、群馬県勢として初の深紅の優勝旗を手にした。
桐生市出身の福田は中学2年の時、原辰徳のいた東海大相模(?奈川)に憧れた。その相模を準々決勝で倒したのが上尾だった。
「隣県にこんなに強い学校があるんだ」。胸が高鳴った。翌年、縁があり練習に参加。「これくらいできれば上尾に来ても大丈夫」と野本に声を掛けてもらい、うれしかったのを覚えている。
甲子園に行きたくて、野本に野球を教わりたくて上尾に越境入学。当時のOB会長宅で3年間、下宿生活を送った。
主将を務め、3年の夏にはエース右腕・仁村徹(現楽天スカウト部副部長)らとともに1番遊撃手で甲子園出場を果たし、夢を実現させた。牛島−香川バッテリーが有名だった浪商(大阪)と激闘の末敗れたが、今でも名勝負として語り継がれている。
しかし、その1年前。上尾は春季県大会を連覇し、夏の第1シードが決まっていたにもかかわらず、校内トラブルが暴力事件と報じられ、大会の出場を辞退せざるを得なくなった。対外試合も6カ月禁止。秋季大会も棒に振った。それは翌年の選抜大会も出られないことを意味していた。
当初は目標を失いかけ、気の抜けた部分もあった。それでも「ここからしっかりこらえて汚名返上しよう、耐えて我慢して悔しさをぶつけようという野本監督の姿勢は崩れなかった」と福田。平日は平常通り、土日は実戦感覚を失わないように紅白戦を黙々と行い解禁の時に備えた。翌春は県を制し関東大会準優勝。夏も県を勝ち抜いた。
福田は、野本が浦和学院の監督に就任した年に1年間だけコーチという立場で接した。この1年がその後の指導者人生につながっていると自覚している。選手時代には聞けなかった「こういう風に教えたらいい」という具体的なアドバイスを度々もらったのは財産だ。
そして、何よりも「我慢することの大事さを教わった」と力を込める。
「結果が悪くても、指導者は指導者として、毅然と子供たちに接しなければいけない」
選んだ恩師と同じ道。攻撃型から守備力重視のチームへ、練習時間も創部当初よりは長くし、しつけの面でも厳しさを求めた。試行錯誤を繰り返しながら、たどり着いた夏の甲子園の頂。スタイルは変化しながらも「我慢」「毅然」。胸に刻む思いは今も変わらない。
福田にとって、野本はどんな存在なのか。「神様みたいな人ですね。ユニホームを着た時の紳士な姿勢。汚い言葉を使わずに、生徒を見守っている。恐怖感もないし、ベンチにいると安心してプレーできていた。まねはできないけど、高校野球のお手本であり、野球人としてもお手本です」=文中敬称略
2018年6月25日 埼玉新聞掲載