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野球部 情報
管理人 / 2018-06-26 09:56:00 No.40383
100年の心 白球がつなぐ絆
彩の名将・野本喜一郎(下)
受け継ぐ名将の系譜
「人を育む」思い根幹に
新井浩 伊奈学園監督・高野和樹 上尾監督

「俺は浦和学院に行く。あとはおまえがやれ」

1984年4月、計20年以上、上尾の監督を務めた野本が浦和学院の監督に就任。3月、当時コーチだった新井浩(現伊奈学園監督)は、野本に呼ばれこう告げられた。

「神様みたいな人」の後を、25歳になったばかりの青年監督が突然継ぐことになった。しかし厳しい現実が待っていた。8連覇が懸かっていた春季県大会は3回戦で市川口にコールド負け。「上尾は終わった」と周囲からささやかれ、自宅の電話は鳴りっ放しだった。

それでも「野本監督の築いた上尾高校を弱くさせてはいけない、その一心。とにかく夢中で、選手と一生懸命だった」。

負けてもガミガミ言いたくなるところだが、野本スタイルを継承。細かいことは指導せず、我慢強く、じっくりと育てた。

夏の大会では前評判を覆して躍進。投手陣を強力打線と堅守が支え、5年ぶりの優勝を飾った。自身が上尾の1年次に背番号13をもらい、甲子園で4強入りした感動を忘れられず指導者で、もう一度目指した甲子園。監督生活わずか4カ月でかなえ「夢見心地でした」。

当時、決勝戦を上尾応援席最前列で見守っていた野本は「私の野球に近いオーソドックスな野球だが、多彩さがあっていいですね」と教え子をたたえた。

甲子園でも徳島商に競り勝ち、1勝を挙げた。

野本が浦和学院に移ってからも週に1度は上尾市の野本宅で「野球の勉強をさせてもらった」という新井。「貴重な経験ができて、財産になりました」と笑顔を見せる。

現在59歳。自身が現役時代に野本に1度だけ打ち方を教えてもらい感銘を受けたように、「普段はあまり言わず、気付いた時に指摘すると他の選手も、(そのチャンスを逃さないように)聞き耳を立てる」。心掛けているのは「指導しない指導」だ。

新井の後、75年夏の甲子園4強メンバーだった斉藤秀夫(現北本監督)、新井の教え子の鳥居俊秀(現白岡監督)とOBがリレーし、現在は高野和樹が指揮を執る。

「圧倒的な存在感、どっしりした雰囲気。テレビ越しでも分かりました」。母校を率いて8度目の夏となる高野もまた少年時代に野本野球に憧れを抱いた一人だ。補欠覚悟で東秩父村から出てきて下宿。野本に1年間、新井に2年間教わり、2年次には控え捕手として甲子園でベンチ入りし、徳島商戦には守備固めで出場。ウイニングボールを手にした。

高野は練習中はよく動く。できるだけ足を運びメンバー、メンバー外を問わず、時には厳しい言葉を掛けることもある。

それでも上尾の現役時代はマネージャーとして、現在は部長として野球部を支える神谷進は「野本監督と高野監督。方法は違っても、生徒をしっかり観察していて効果的な指導をする」という。「野球は基本的なことの積み重ねと繰り返し」。高野は野本に言われた言葉を心に刻み、キャッチボールやバントなどの基礎を大事にしている。

小学生の時に憧れた場所で監督。「こんな自分でいいのか」と自問自答したこともあるが、腹は決まっている。「伝統の重みを感じながら、今の上尾高校をつくり上げていくのが自分の使命。今の上尾は当時の上尾ほど強くないかもしれない。でも一瞬、一球に真剣に取り組む野球をぜひ甲子園で発表したいですね」

野本は浦和学院の監督3年目の86年8月に64歳で亡くなった。あれから32年。時代の経過とともに、指導者のスタイルも変化する。ただ、根幹にある「人を育む」思いは変わらない。野本DNAは今もなお、まな弟子たちの手によって、次世代へと受け継がれている。=文中敬称略

2018年6月26日 埼玉新聞掲載

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