浦学OB倶楽部 BBS
新規
過去
ヘルプ
管理
戻る
ADVENBBSの過去ログを表示しています(閲覧専用)
野球部 情報
管理人 /
2018-10-24 20:23:00
No.41988
渡邉勇太朗 3年
退部危機乗り越え 甲子園を強く見据える 渡邉勇太朗(浦和学院)【前編】
今年のミレニアム世代で大物と期待されるのが、渡邉勇太朗(浦和学院)だ。190センチ90キロと恵まれた体格から投げ込む投球フォームは大谷翔平(エンゼルス)にそっくりといわれ、さらに149キロのストレートと多彩な変化球で勝負する大型右腕である。そんな渡邉の3年間は挫折を乗り越えたものだった。まずは下級生の歩みから振り返っていこう。
★浦和学院の寮生活、早朝練習の過酷さは想像以上だった
剛腕・渡邉 勇太朗の野球との出会いは小学校1年生から。小学校に入る前から兄とキャッチボールをしてボールに触れる日々。投手を始めたのは小学4年生から。
そして羽生市立東中に進むと、投手として頭角を現す。2年夏には埼玉県大会で優勝を果たし、関東大会へ出場した。さらに渡邉は身長も中学入学から大きく伸び、166センチから中学3年には185センチまで伸び、球速も「そんな速くないですよ」と渡邉は謙遜するが、最速133キロ。将来性の高さは多くの高校関係者から注目された。その中で渡邉が選んだのは浦和学院だった。
渡邉の6歳上の兄が浦和学院の選手と仲が良く、甲子園まで応援にいったこともあり、甲子園で活躍する浦和学院の選手たちは渡邉の憧れとなっていた。そして浦和学院に入学するために家を出て入寮。
入学する前から厳しい野球部だと覚悟をしていたが、想像以上だった。
まず朝練。だいたい5時半起床で、6時から朝練がスタートする。主なメニューはランニング、サーキットメニュー、学校の体育館にある綱を登ったりするメニュー。渡邉は「練習の中で朝練が一番きつかったです」と振り返る。そして寮生活も過酷だった。
「浦和学院は全体的に分刻みで行動するんです。今まで細かい時間設定に慣れていない僕にとってはきつかったです。だけど、この寮生活は甲子園にいって大事だったんだなと分かったんです。甲子園ではホテルの生活、ベンチの入れ替え、1つ1つの行動にスピードが大切でしたので、役に立ったと思います」
きつさを感じながらもタメになったと語る渡邉。また強豪校だと夜遅くまで練習するイメージがあるだろうが、実は浦和学院は睡眠時間を確保する意味でも、午後の練習は18時半に終わり、長くても19時半〜20時に終わるという。強さを求めて隙のない生活を送る浦和学院の環境の下、渡邉はメキメキと実力を身に着け、1年夏の新人戦からベンチ入りを果たす。
ここまで順調にきていた渡邉だったが、1年冬、寮を抜け出す。そこにはどんな理由があったのか。ここから一問一答で聞いていきたい。
★森監督、仲間たちの配慮に感謝
―― どういう理由があったのでしょうか?
渡邉勇太朗(以下、渡邉):まだ1年生の時は、先輩が中心の時期。冬は大会もなくて目先の目標を失ったというか。その時、僕は胃腸炎もあって、体調をちょうど崩してしまっていて。その時になぜ野球をやっているんだろうと考えこんで、寮を抜け出して帰ってしまいました。
―― 家に帰ってきたとき、保護者の方の反応はいかがでしたか?
渡邉:もちろん驚いてましたね。事情を説明して、すぐその日、浦和学院に戻って森士監督とお話をさせていただきました。
―― 森監督はどういう反応でしたか?
渡邉:急がなくていいから、しっかりとメンタル面が万全の状態で戻ってこれるようにサポートするから一緒に頑張ろうと自分の気持ちを受け止めてもらいました。
―― そうなんですね。森監督の優しさを実感しました…。そうなると部員からの激励もありましたか?
渡邉:そうですね。部員みんなから(激励)してもらいました。誰がとかはなくみんなから声をかけてもらってたので本当に感謝してます。
―― 途中で寮を抜けだして、そこから部に戻ることは渡邉投手にとって大変勇気がいる決断だったと思います。それでも渡邉投手を優しく出迎え、励ました浦和学院は素晴らしいチームだと思います。
渡邉:本当にそう思います。浦和学院は人間的にも成長させてくれるので、すごい良い場所です。またメリハリを大事にしているチームですので、グラウンドでは全員がライバル。何かあれば厳しい指摘もされますし、刺激を受けます。
―― そうなんですね。渡邉投手はいつ部に戻ったのですか?
渡邉:2、3週間はずっと家で親の手伝いをしていたんですけどそこから、学校には通うようになりました。家から通える距離にあるので。寮に戻ったのは2月に入ってからですね。
部から離れてしまっていたので手伝いなどから入って、徐々に練習に参加してという形でやらせていただき、春の関東大会からベンチ入りさせてもらいました。
★2年夏は中心投手で活躍 秋の敗退を乗り越え 冬に進化のきっかけをつかむ
春の関東大会の初戦は増田珠(現・ソフトバンク)など多くの強打者を揃える横浜。だが、渡邉に気負いはなかった。
「緊張は無かったですね。横浜のほうが上のチームだと思ってたので、打たれて当たり前と思って思い切って投げられました」
なんと5回、被安打3、無失点の好投でチームを勝利に導くと、さらに準決勝の日大三戦では、6回まで2失点の好投。決勝の東海大相模戦では2回1失点と、計13回を投げて、3失点と上々の結果を残した。
「この大会では調子が良かったですし、特に日大三校はセンバツに出ていたので、そのチームに勝てたことは自信につながりましたし、甲子園へ行きたい気持ちが強まっていました」
目標を見失っていた半年前から一転、投手陣の中心となった渡邉。気力を漲らせながら夏に向かっていた。
そして夏の埼玉大会では、準決勝まで無失点の好投。決勝戦で敗れてしまったが、6試合に登板し、計5失点と、安定したピッチング。夏には144キロをマークし、高卒プロをにわかに意識した大会でもあった。
2年秋、肩を痛めて出遅れた渡邉はリリーフで待機。だが、9月29日の準々決勝の市立川越戦に完封負け。渡邉はベンチから敗戦を見た。悔しさは相当なものというより、チームにとってもかなりショックな負けだった。
「1学年上の夏が花咲徳栄に負けて、その花咲徳栄が結果的に甲子園で優勝したので自分たちは絶対センバツ、夏と甲子園に行くっていう気持ちは強かったですね。秋の準々決勝で負けてしまって。しばらくは気持ちが入らなかったというか。それでも、森監督が喝をいれてくれてそこから冬全員で鍛えなおせたので春、夏の結果につながったと思います」
二度目の冬。最後の夏は絶対に甲子園に出たい思いから、かける思いは違った。
秋の準々決勝のショックを乗り越え、冬の練習に入った渡邉。去年と違い、夏の甲子園に出ることを目標に本気で取り組んだ。
「1つのトレーニングに対しても、すごいこだわるようになりましたし、トレーニングも絶対に妥協を許さなかったですね」
先を考えずに体が大きくなることを信じて、目の前のトレーニングに打ち込んだ。
ここから体の使い方を学ぶために、様々なトレーニングに出会う。まず秋から「4スタンス理論」に出会う。渡邉は大谷翔平投手と同じB2タイプ。踵の外側が軸になっており、渡邉はその使い方をマスターするまでに時間がかかった。
「僕は変化球を投げるのは得意で、すぐに投げられるんですけど、体の使い方は根本的な部分になるので、つかむのは時間がかかるタイプだと思っています」
B2タイプをものにしたのは年明け。投げてみるとボールの勢いが違った。
「4スタンス理論が全てかは分からないのですが、明らかに今までよりは、良いボールというのが多かったです。例えば10球中何球という割合を見ると、今までよりは良いボールの割合が多くなったと思います」
4スタンス理論がすべてではないというのは、4スタンス理論の動きを身につける以外のトレーニングもレベルアップにつながったからだ。
浦和学院は動物の動きを真似た『クリーチャートレーニング』を取り入れるが、それについて「体の動きが分かり、効果的なトレーニングだったと思います」と効果を実感。4スタンス理論と同時に始めていた大谷翔平の模倣も年明けにはマスターしていた。
大谷のフォームを真似した理由を聞くと、
「理由は3つあります。脱力感があって、力感のないゆったりした全体的な動き、左脚を上げた時の立ち姿、スムーズな体重移動。この3つを参考にしていました」
模倣するといっても、合う、合わないがある。渡邉が大谷翔平を真似できたのは、大谷同様、190センチの長身ながら下半身主導のフォームができるところである。野球界を見渡すとそれができる選手はなかなかいない。渡邉は周囲に自身の投球フォームを褒められたという。
「投げ方は中学校の時からいろんな人に褒められていましたし、自分自身、下半身の力を上半身の指先まで伝えるというのが結構できていたと思います」
高校で取り組んだ理論的なトレーニングは渡邉のフォームの完成度をより高め、さらに潜在能力を引き出すきっかけになったのだ。
前編はここまで。下級生時代に多くの経験を積んだ渡邉。後編ではその苦労が報われた最後の夏の軌跡に迫ります。後編もお楽しみに!!
2018年10月24日 高校野球ドットコム掲載
Re: 野球部 情報
管理人 /
2018-10-25 10:15:00
No.41994
プロで生き残るため「吾道一貫」を胸に生きる 渡邉勇太朗(浦和学院)にインタビュー【後編】
前回に引き続き後編では、甲子園で見せた大阪桐蔭との戦い、侍ジャパンでの経験を振り返り様々な思いを語ってくれた。そんな渡邉勇太朗が野球人生で大事にしている言葉とは一体何なのか。
後編では甲子園や侍ジャパンの経験や学んだことを語っていただき、そしてプロへ向けて意気込みを述べてもらった。
★甲子園から自分のピッチングができた
充実のオフになったが、春先に肩を痛め出遅れ。県大会はベンチ外。それでもチームは優勝し、関東大会で実戦復帰。千葉黎明戦では、球数制限がある中で先発。5回一死まで投げて2失点の力投。最速も142キロを計測したが、渡邉自身、全然ダメだったと振り返る。
その後、渡邉は夏を戦い抜く体力づくりを一から始めて、ケガの再発をさせないため、最大100球の投げこみを実施しながら、調整を続けた。しかし夏に入ってもなかなか復調ができなかった。
「全然ダメでしたね。夏の県大会も全然合わせられなくて、リリースのタイミングが合わず、自分のイメージ通りに投げることができませんでした。結果的には抑えた試合もありましたけど、あまり記憶にない大会です」
夏までは自分のイメージ通りに投げる練習を行った。
「夏の大会前にリリースのタイミングとかを崩していて、あまり良くないまま入って、夏の南埼玉大会でも直せずに終わってしまったので、リリースを意識した練習をやってから甲子園入りしました。でも甲子園に行っても最初はダメだったんです」
だが渡邉にとって幸運だったのは初戦が8月12日で、2回戦からの登場だったということ。
「自分としてはけっこう助かりましたし、チームとしてもすごく良かったと思います」
初戦の仙台育英戦では、ようやく本来のピッチング。6回無失点。さらに自己最速の149キロを計測。変化球も高精度で、前評判通りのピッチングを示してくれた。
「南埼玉大会では“甲子園に出なきゃいけない”というプレッシャーを感じたんですが、もう甲子園に出たので、あとは楽しむだけだと思って、思いきりいった結果があのピッチングだったと思います。初めての甲子園のマウンドはすごく楽しかったです」
また3回戦の二松学舎大附戦でも、5安打10奪三振の完封勝利。この試合で光ったのは、ツーシームだ。140キロ前後のスピードで打者の手元で急激に曲がっていく。これは甲子園で使い始めたものだ。
「夏の大会前に覚えたんですが、南埼玉大会は調子を崩して真っ直ぐもちゃんと投げられていなくて、ツーシームを使える状況じゃなかったので、埼玉大会では使わなかったです。甲子園から使いだして、すごく良かったです。僕自身、変化球は器用に投げられると思っていて、ツーシームは1日で覚えました」
★想像以上だった大阪桐蔭打線
甲子園で好投を続けていた渡邉だったが、準々決勝の大阪桐蔭戦では、6.1回を投げて自責点5と敗戦した。大阪桐蔭はこれまでにはない強さを感じたという。ここも一問一答で聞いてみよう。
―― まず大阪桐蔭打線の印象はいかがでしたか?
渡邉勇太朗(以下、渡邉):甲子園での前の戦いぶりを観て、大阪桐蔭はあまり調子良さそうな感じがしてなかったので、自分の今までの投球ができればいけるかなと思ったんですが、自分たちとの試合から調子が上がったというか。今までと違った感じがしました。
―― 2回の根尾君のホームランについてはいかがでしょうか。
渡邉:僕が投げた球は甘かったんですけど、あそこ(左中間)に入れられるとは思わなかったです。
―― 藤原君にはインコースをずっと攻めていましたね。
渡邉:もう、張られてましたね、あれは。「張ってた」と本人も言ってましたし。張ってたとしても、自分の、見逃したらボールかストライクか分からないようなギリギリのコースを一発で仕留めてホームランにしたので、やはり凄いなとは思います。あのコースをホームランにされたのは初めてです。
―― 大阪桐蔭打線はこれまでと何が違うのでしょう?
渡邉:コンパクトなスイングでも飛ばせるというところではないでしょうか。
これまでのチームは長打力があって大きいのを狙う選手がいても、体が開いてドアスイングをするイメージがあるので、かわせば抑えられますので、自分の中では得意でした。ただ大阪桐蔭はコンパクトで、甘い球を仕留めてくるので。やはり違いますね。
―― 甲子園で3試合投げてみての感想を教えてください。
渡邉:一言で言うと「楽しかった」です。負けた瞬間は悔しかったですけど、すぐに吹っ切れて次に頑張ろうと思えましたし、すごく自分を成長させてくれた場所だなと思います、甲子園というのは。
甲子園に出てなかったら絶対にジャパンにも入れてなかったと思いますし、これだけプロの球団のスカウトからも目をつけていただいているということはここまで無かったですし。やはり甲子園というのは、自分を成長させてくれました。
―― そういう意味でも、甲子園は想像以上の力を出してくれたと感じていますか?
渡邉:そうですね。最後の夏の甲子園で投げたボールは、高校3年間の中でも一番良かったと思います。
★ジャパンの経験は自分の足りないところを気づかせてくれた
甲子園後、侍ジャパンU−18代表に選ばれた渡邉。渡邉は貴重な体験だったと振り返る。
「レベルが高い選手と野球ができるというのは、すごく貴重な体験ですし、全国にたくさんいる球児の中で、ほかの8人の投手は僕にとって一番のライバルだと思います」
ピッチングを振り返ると、1試合の登板に終わった。そこで感じたのは国際大会とナイターで投げる難しさだ。
「ジャパンの時はあまり照準を合わせられなかったです。慣れないナイターで自分の体とメンタルをどう合わせるのか。その難しさを実感しました。国際試合はこれまでの大会と違い、テンポも違います。日本の野球文化と全然違うので、そういうのにけっこう苦労しました。ただプロ野球ではあのリズムで試合が進むと思うので、すごくいい経験にはなったと思います」
そして国体終了後にプロ志望届を提出した。今年の甲子園の快投が提出のきっかけとなった。今、一番の課題だと感じているのは体の強さだ。
「これが一番ですね。投球術はもちろんですけど、まずプロに行って身体を作って、投げながら打たれながらしっかり覚えていくというのが、僕には必要だと思います」
体の強さがまだ足りないと感じたのは、大学代表と試合を行い、大学代表の投手を間近で見たことが影響している。
「大学のジャパンというだけあって、プロの一歩手前の実力を持った人たちばかりでしたので、その人たちを間近で見て試合ができたというのは、すごく大きいことだと思います。
今の僕は身体の厚み、投球術と、すべてにおいて高校生クラス。今のままでは全然通用しないので、プロに行って一から叩き直そうと思っています」
将来は先発ローテーションに入ってリーグ優勝に導きたい思いがある。
そして渡邉はこれからの野球人生で大事にしたい言葉がある。それは浦和学院の校訓『吾道一貫』だ。
「『吾が道一つをもってそれを貫く』という意味なんです。簡単に言うと自分の道を貫くという意味なのですが、聞き入れることも大事なんですが、いろんな人からいろんなことを教わる中で、自分に必要なことを自分で判断して実践するということが大事だと思います。
自分に合わないことも、教えてくれることはすごくありがたいことなんですが、すべて実践するのではなくて、自分でいいと思ったことを入れて実践してみて、あまり合わないなと思うことは心の片隅に置いて、その置いておいたものが実際に使えることもあるので、全部捨てるわけではなく、自分で合う合わないを判断してやるというのは、すごく大事だと思います」
この言葉は、渡邉が厳しいプロ野球で長く生き残るための道標となるはずだ。
2018年10月25日 高校野球ドットコム掲載
ADVENBBSの過去ログを表示しています。削除は管理者のみが可能です。
退部危機乗り越え 甲子園を強く見据える 渡邉勇太朗(浦和学院)【前編】
今年のミレニアム世代で大物と期待されるのが、渡邉勇太朗(浦和学院)だ。190センチ90キロと恵まれた体格から投げ込む投球フォームは大谷翔平(エンゼルス)にそっくりといわれ、さらに149キロのストレートと多彩な変化球で勝負する大型右腕である。そんな渡邉の3年間は挫折を乗り越えたものだった。まずは下級生の歩みから振り返っていこう。
★浦和学院の寮生活、早朝練習の過酷さは想像以上だった
剛腕・渡邉 勇太朗の野球との出会いは小学校1年生から。小学校に入る前から兄とキャッチボールをしてボールに触れる日々。投手を始めたのは小学4年生から。
そして羽生市立東中に進むと、投手として頭角を現す。2年夏には埼玉県大会で優勝を果たし、関東大会へ出場した。さらに渡邉は身長も中学入学から大きく伸び、166センチから中学3年には185センチまで伸び、球速も「そんな速くないですよ」と渡邉は謙遜するが、最速133キロ。将来性の高さは多くの高校関係者から注目された。その中で渡邉が選んだのは浦和学院だった。
渡邉の6歳上の兄が浦和学院の選手と仲が良く、甲子園まで応援にいったこともあり、甲子園で活躍する浦和学院の選手たちは渡邉の憧れとなっていた。そして浦和学院に入学するために家を出て入寮。
入学する前から厳しい野球部だと覚悟をしていたが、想像以上だった。
まず朝練。だいたい5時半起床で、6時から朝練がスタートする。主なメニューはランニング、サーキットメニュー、学校の体育館にある綱を登ったりするメニュー。渡邉は「練習の中で朝練が一番きつかったです」と振り返る。そして寮生活も過酷だった。
「浦和学院は全体的に分刻みで行動するんです。今まで細かい時間設定に慣れていない僕にとってはきつかったです。だけど、この寮生活は甲子園にいって大事だったんだなと分かったんです。甲子園ではホテルの生活、ベンチの入れ替え、1つ1つの行動にスピードが大切でしたので、役に立ったと思います」
きつさを感じながらもタメになったと語る渡邉。また強豪校だと夜遅くまで練習するイメージがあるだろうが、実は浦和学院は睡眠時間を確保する意味でも、午後の練習は18時半に終わり、長くても19時半〜20時に終わるという。強さを求めて隙のない生活を送る浦和学院の環境の下、渡邉はメキメキと実力を身に着け、1年夏の新人戦からベンチ入りを果たす。
ここまで順調にきていた渡邉だったが、1年冬、寮を抜け出す。そこにはどんな理由があったのか。ここから一問一答で聞いていきたい。
★森監督、仲間たちの配慮に感謝
―― どういう理由があったのでしょうか?
渡邉勇太朗(以下、渡邉):まだ1年生の時は、先輩が中心の時期。冬は大会もなくて目先の目標を失ったというか。その時、僕は胃腸炎もあって、体調をちょうど崩してしまっていて。その時になぜ野球をやっているんだろうと考えこんで、寮を抜け出して帰ってしまいました。
―― 家に帰ってきたとき、保護者の方の反応はいかがでしたか?
渡邉:もちろん驚いてましたね。事情を説明して、すぐその日、浦和学院に戻って森士監督とお話をさせていただきました。
―― 森監督はどういう反応でしたか?
渡邉:急がなくていいから、しっかりとメンタル面が万全の状態で戻ってこれるようにサポートするから一緒に頑張ろうと自分の気持ちを受け止めてもらいました。
―― そうなんですね。森監督の優しさを実感しました…。そうなると部員からの激励もありましたか?
渡邉:そうですね。部員みんなから(激励)してもらいました。誰がとかはなくみんなから声をかけてもらってたので本当に感謝してます。
―― 途中で寮を抜けだして、そこから部に戻ることは渡邉投手にとって大変勇気がいる決断だったと思います。それでも渡邉投手を優しく出迎え、励ました浦和学院は素晴らしいチームだと思います。
渡邉:本当にそう思います。浦和学院は人間的にも成長させてくれるので、すごい良い場所です。またメリハリを大事にしているチームですので、グラウンドでは全員がライバル。何かあれば厳しい指摘もされますし、刺激を受けます。
―― そうなんですね。渡邉投手はいつ部に戻ったのですか?
渡邉:2、3週間はずっと家で親の手伝いをしていたんですけどそこから、学校には通うようになりました。家から通える距離にあるので。寮に戻ったのは2月に入ってからですね。
部から離れてしまっていたので手伝いなどから入って、徐々に練習に参加してという形でやらせていただき、春の関東大会からベンチ入りさせてもらいました。
★2年夏は中心投手で活躍 秋の敗退を乗り越え 冬に進化のきっかけをつかむ
春の関東大会の初戦は増田珠(現・ソフトバンク)など多くの強打者を揃える横浜。だが、渡邉に気負いはなかった。
「緊張は無かったですね。横浜のほうが上のチームだと思ってたので、打たれて当たり前と思って思い切って投げられました」
なんと5回、被安打3、無失点の好投でチームを勝利に導くと、さらに準決勝の日大三戦では、6回まで2失点の好投。決勝の東海大相模戦では2回1失点と、計13回を投げて、3失点と上々の結果を残した。
「この大会では調子が良かったですし、特に日大三校はセンバツに出ていたので、そのチームに勝てたことは自信につながりましたし、甲子園へ行きたい気持ちが強まっていました」
目標を見失っていた半年前から一転、投手陣の中心となった渡邉。気力を漲らせながら夏に向かっていた。
そして夏の埼玉大会では、準決勝まで無失点の好投。決勝戦で敗れてしまったが、6試合に登板し、計5失点と、安定したピッチング。夏には144キロをマークし、高卒プロをにわかに意識した大会でもあった。
2年秋、肩を痛めて出遅れた渡邉はリリーフで待機。だが、9月29日の準々決勝の市立川越戦に完封負け。渡邉はベンチから敗戦を見た。悔しさは相当なものというより、チームにとってもかなりショックな負けだった。
「1学年上の夏が花咲徳栄に負けて、その花咲徳栄が結果的に甲子園で優勝したので自分たちは絶対センバツ、夏と甲子園に行くっていう気持ちは強かったですね。秋の準々決勝で負けてしまって。しばらくは気持ちが入らなかったというか。それでも、森監督が喝をいれてくれてそこから冬全員で鍛えなおせたので春、夏の結果につながったと思います」
二度目の冬。最後の夏は絶対に甲子園に出たい思いから、かける思いは違った。
秋の準々決勝のショックを乗り越え、冬の練習に入った渡邉。去年と違い、夏の甲子園に出ることを目標に本気で取り組んだ。
「1つのトレーニングに対しても、すごいこだわるようになりましたし、トレーニングも絶対に妥協を許さなかったですね」
先を考えずに体が大きくなることを信じて、目の前のトレーニングに打ち込んだ。
ここから体の使い方を学ぶために、様々なトレーニングに出会う。まず秋から「4スタンス理論」に出会う。渡邉は大谷翔平投手と同じB2タイプ。踵の外側が軸になっており、渡邉はその使い方をマスターするまでに時間がかかった。
「僕は変化球を投げるのは得意で、すぐに投げられるんですけど、体の使い方は根本的な部分になるので、つかむのは時間がかかるタイプだと思っています」
B2タイプをものにしたのは年明け。投げてみるとボールの勢いが違った。
「4スタンス理論が全てかは分からないのですが、明らかに今までよりは、良いボールというのが多かったです。例えば10球中何球という割合を見ると、今までよりは良いボールの割合が多くなったと思います」
4スタンス理論がすべてではないというのは、4スタンス理論の動きを身につける以外のトレーニングもレベルアップにつながったからだ。
浦和学院は動物の動きを真似た『クリーチャートレーニング』を取り入れるが、それについて「体の動きが分かり、効果的なトレーニングだったと思います」と効果を実感。4スタンス理論と同時に始めていた大谷翔平の模倣も年明けにはマスターしていた。
大谷のフォームを真似した理由を聞くと、
「理由は3つあります。脱力感があって、力感のないゆったりした全体的な動き、左脚を上げた時の立ち姿、スムーズな体重移動。この3つを参考にしていました」
模倣するといっても、合う、合わないがある。渡邉が大谷翔平を真似できたのは、大谷同様、190センチの長身ながら下半身主導のフォームができるところである。野球界を見渡すとそれができる選手はなかなかいない。渡邉は周囲に自身の投球フォームを褒められたという。
「投げ方は中学校の時からいろんな人に褒められていましたし、自分自身、下半身の力を上半身の指先まで伝えるというのが結構できていたと思います」
高校で取り組んだ理論的なトレーニングは渡邉のフォームの完成度をより高め、さらに潜在能力を引き出すきっかけになったのだ。
前編はここまで。下級生時代に多くの経験を積んだ渡邉。後編ではその苦労が報われた最後の夏の軌跡に迫ります。後編もお楽しみに!!
2018年10月24日 高校野球ドットコム掲載