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野球部OB情報
管理人 /
2018-11-16 08:53:00
No.42140
山根佑太 34期
23歳の「野球エリート」が大学卒業後に描く夢
日本一になった山根佑太がバットを置いた訳
山根佑太という名前を聞いたことがある人はどれくらいいるだろうか?
2013年春のセンバツ甲子園で優勝した浦和学院のキャプテン、立教大学入学後は4年春に全日本大学野球選手権で日本一になった男だ。だが、2018年春の大学卒業と同時にバットを置いた。エリート野球道を歩み続けた男はなぜ野球をやめたのか?『プロ野球を選ばなかった怪物たち』では山根の今に迫った。
野球部のある高校は全国に3700校以上もある。2018年夏、甲子園に足を踏み入れられたのは56校だけだ(記念大会以外は49校)。確率にすればわずか1.5パーセント。どれだけ実力のあるメンバーがそろっても、百戦錬磨の監督が采配を振っても、途方もない数字であることに違いはない。
だから、プロ野球で活躍するスーパースターのなかには、高校時代に甲子園に出ることができなかった選手がたくさんいる。甲子園出場が夢で終わった球児の多くは、山根佑太の実績を見てジェラシーを覚えるはずだ。
2012年、二年生の春に、浦和学院(埼玉)の外野手として初めて甲子園に立ち、三年夏まで4回連続で出場している。出場できる可能性のある5回のうち4度、憧れの舞台でプレイした。二年春は3回戦で大阪桐蔭(大阪)に敗れたもののベスト8に進出、夏も3回戦まで進んだ。
三年春のセンバツはキャプテンとして全国制覇に貢献。決勝で済美(愛媛)の安樂智大(現東北楽天ゴールデンイーグルス)を打ち崩した。最後の夏は1回戦で仙台育英(宮城)に敗れたものの、10対11の激闘を展開している。
甲子園の通算成績は49打数20安打(打率4割0分8厘)、16打点。甲子園で持ち前の打棒を十二分に発揮し、9個の勝利を積み重ねていった。
立教大学入学後、四年の春にはクリーンナップに座り、18年ぶりの東京六大学リーグ優勝を手繰り寄せ、続く全日本大学野球選手権では59年ぶりの日本一にものぼりつめた。その春の活躍は目覚ましく、打率2割7分7厘、4本塁打、7打点を記録し、ベストナインに輝いた。秋のリーグ戦でも2本塁打を放っている。
★大学卒業後にプロに行ける可能性もあった
身長180センチ、体重77キロの恵まれた体格、一発長打を秘めた豪快な打棒、読みの鋭さは、さらなる「伸びしろ」を感じさせた。日本のプロ野球で右打ちの大砲が不足していることを考えると、プロ志望届を提出すればドラフト会議で指名される可能性もあっただろう。勝負強さとスケールの大きさは、ほかの選手にはないものだった。
しかし、山根は大学卒業と同時にバットを置いた。社会人野球でもプレイしていない。
数々の栄光に包まれた野球人生は静かに幕を閉じたのだ。
東京六大学を代表するスラッガーは、なぜ野球の世界に別れを告げたのか?
★常にレギュラーだった男がぶつかった壁
山根が高校卒業後に進学先として選んだ立教大学野球部は東京六大学の名門のひとつだが、1999年を最後にリーグ優勝から遠ざかっていた。
「立教大学は自由な雰囲気があって、上下関係もありませんでした。先輩を『まっちゃん』と呼ぶような。浦学で1学年上だった佐藤拓也さんには、『外野手がいないから、一年生から試合に出るチャンスはあるよ』と言われたのですが……」
しかし、大学では思うような結果が残せない。自由な校風の立教大学だから、ライバルであるはずの上級生も目をかけてくれた。「頑張れよ」と声をかけてくれる人もいた。しかし、山根のバットから快音が聞かれることはなかった。
「金属バットから木製に変わった影響はありませんでした。高校時代は練習で竹バットを使っていたので。でも、それまでのように打てなくて……ずっと歯がゆい思いをしていました」
それでも期待の新人だけにチャンスは巡ってくる。一年春のリーグ戦からベンチに入ったものの、結果は残せなかった。3年間で22打数2安打、打率は1割にも満たなかった。
「甲子園優勝チームのキャプテンということで、期待度が相当上がっていましたね。でも、もともと僕の能力が飛び抜けていたわけではありません。野球は個人競技じゃない。あの大会では、エースの小島和哉(早稲田大学。ドラフト3位で千葉ロッテマリーンズへ)が抑えて、みんなが打ったから勝てたわけです。たまたま僕がキャプテンだったというだけなのに……ハードルが上がり切っていて、膨れ上がった期待に応えようと、もがきにもがいた3年間でした」
鳴り物入りで入学してきただけに、成績を残せなければ肩身は狭い。風当たりは強くなり、自分を誹謗中傷する「声なき声」が聞こえてきた。
「ちょっと打てないと『あの山根はダメだ』となりますよね。『インターネットでこんなこと書いてあるの見つけたよ』とわざわざ教えてくる人もいました。そういうのがうざったかったし、悔しかった」
★誰のために野球をやっているのか分からなくなった
山根に期待したのは関係者だけではない。当然、両親は高校時代と同じような活躍を求めていた。
「そんなときに思っちゃったんですよね。『何のために、誰のために野球をやってるんだろう』って」
仲間とただ楽しくプレイした先にいつも勝利があった。だからこそ、厳しい練習も苦にならなかった。
ずっと目の前の試合に勝つことだけを考えていたのに。
★負のスパイラルにはまっていた山根
「状況を変えないと……打たなきゃ……と、そればかりでした。力が入れば入るほどうまくいかなくなる。完全に負のスパイラルにはまってしまいました」
悩みに悩んだ末に、山根はひとつの結論にたどりついた。
「大学で野球をやめよう」
そう決意したのだ。
それから、まわりの評価は一切気にならなくなった。もう「何かのために」野球をする必要はない。あと1年、大好きな野球をやり切ろう。気持ちが固まった瞬間に、肩が軽くなった。
「昔みたいに思い切ってバットを振れるようになったのは、それからですね。もう打てても打てなくてもいい。結果を出せなくても関係ない。試合を楽しもうと思えました」
四年生の春、山根は変わった。
チャンスで試合の流れを変える一発を放ち、1999年以来ずっと優勝から遠ざかっていたチームに勢いをつけた。山根が放った4本のホームランのうち、1本でも不発に終わっていたら、立教大学の今世紀初めての優勝はなかったかもしれない。
「あのシーズンは本当に気持ちよかった。技術的にはそれまでと何も変わっていません。違ったのは気持ちだけです」
もちろん、レベルの高い東京六大学のピッチャーを相手に、気持ちだけで打てるはずがない。もともと備わっていた「体」と「技」に、最後に「心」が追いついたのだ。
それまで「あと1勝」で逃し続けていた立教大学の優勝に、地元の池袋は沸いた。東京六大学王者として臨んだ全日本大学野球選手権で、各地の代表を撃破して59年ぶりの日本一に輝いたことで騒ぎはさらに大きくなった。
★向上心もなしに野球は続けられない
当然、山根を見るまわりの目は大きく変化した。ところが、本人は浮かれることもなく、自己評価も変えなかった。「大学で野球をやめる」という決意は少しも揺るがなかった。
「プロ野球でやってやろうという色気は全然なかったですね。もしプロに入ったとしても、長くは活躍できないだろうと客観的に自分を見ていました。立教大学の1年先輩の田中和基さん(現東北楽天ゴールデンイーグルス)くらいの身体能力があったら、『プロに行く』と言ったかもしれません。僕は足がそこまで速くないし、肩も強くない。四年のシーズンにちょっと打っただけ。それで『プロだ、プロだ』って騒ぐほうがおかしい。
和基さんは大学で結果を残さなかったとしても、プロに求められた選手だと思います。足は速いし、驚くほど肩は強いし、当たればどこまでも打球が飛んでいく。そういう人がプロに行くんだと思います」
続く
Re: 野球部OB情報
管理人 /
2018-11-16 08:58:00
No.42141
★野球を辞める気持ちは変わらなかった
山根は誰より冷静だった。
「それほど身体能力の高くない僕が、たまたま成績を残しただけで、勘違いしちゃいけない。親は野球をやめないほうがいいと言っていましたが、僕の気持ちは変わりませんでした」
もしプロ野球の球団からドラフト会議で指名されれば、1位なら契約金は1億円、3位、4位指名でも5000万円は下らない。山根と立教大学の同期で、阪神タイガースに3位指名された熊谷敬宥の契約金は6000万円、東京大学のエースで、北海道日本ハムファイターズから7位指名を受けた宮台康平の契約金は2500万円と報道されている。
プロ野球選手はもちろん、金銭的に恵まれている。活躍次第でさらに知名度が上がり、人脈もできる。もし大成できなくても得るものがあるはずだ。
「僕のまわりにも『契約金をもらえるんだから、プロでやってみれば』と言う人もいました。でも、僕はその何年間かをムダにするのが嫌だったんです。3年でクビになるとして、3年間を空っぽの状態で野球をやっても仕方がない。野球に対する向上心もないのに、お金のために過ごすことはできない。お金持ちになれなくてもいいんです。明日死んじゃうかもしれないのに、本当に自分がやりたいこと以外はやりたくない」
プロ野球を目指さないとしても、社会人で野球を続けるという選択肢もあったはずだ。さらに高いレベルで揉まれることで、気持ちが変わる可能性もある。
「大学で4年間プレイしているうちに、プロに行く気がない人間が社会人で野球をやるのはどうかと思うようになりました。プロを目指す気持ちがないのに、野球を続ける……『とりあえず社会人で』とは思いませんでした」
★ずっといた野球の世界から飛び出す
山根は、子どものころからずっと打ち込んできた野球をやめる決断をしたことで、最高の1年を送ることができた。野球エリートとしてど真ん中を歩いてきた男は、大学を卒業したあと、何を職業に選んだのか。
「いまは、個人オーダーのスーツの販売をしています。もともとスーツの仕事をしたいという気持ちがあったので。採寸して生地を選んでもらって、その人に合ったスーツをつくっています。お客さんにはプロ野球選手も、普通のビジネスマンもいます。単価自体は高くありません。店舗は持たず、直接オーダーをいただいています」
それまで関わってきた野球の世界とは何もかも違う。経験のない世界になぜ飛び込んだのか。
★ずっと野球の世界を出たいと思っていた
「もともとスーツに興味があったというのが一番です。この仕事であれば、業種を問わず、さまざまな人と知り合うことができる。年齢も職業も立場も違う、いろいろな世界の人の話が聞ける。社長さんもいれば、新入社員もいますから。
僕は、同じ場所で同じことをするのが、あんまり好きじゃないんですよね。それまでずっといた野球の世界を出たいという思いが強かった。大学に入ったときには海外留学もしてみたいと思っていました」
野球で名を残したことで、できないことがたくさんあった。そこから離れたことによって、別の何かが見えてくるかもしれない。
「これまでやりたいことがあっても、野球があってできなかった。野球を存分にやれたことは幸せでしたが、制限された部分があったのも事実。だからこそ、野球の世界から出たかった。
プロ野球を目指さないのなら、野球は終わり。野球とは別の世界でやりたいことがたくさんあります。大学まで野球を続けて、『やり切った』という思いが強いですね」
山根の野球の実力や実績を知る者は、みな口をそろえて「もったいない」と言う。しかし、山根は過去を振り返るつもりはない。
★野球人生に一区切りつけた山根の目標
「まだ新しい世界で実績を残していないので、『もったいない』とか『野球を続ければよかったのに』と言われますが、10年後に成果を出していれば、そうは言われないはずです。何年後かに『野球を続ければよかったな』とは思わない自信が自分にはあります。まずはオーダースーツの仕事をものにして、独立したいと思っています」
野球人生にはひと区切りをつけた。これからは野球とどう付き合っていくのだろうか。
「基本的に草野球はやらないと決めています。よっぽどのことがない限り、いったんは野球と距離を置きます。でも、野球をやってきたことが僕の武器であることは間違いありません。野球を捨てたわけではありませんから」
高校、大学と濃い野球人生を送ってきた山根の前に、どんな困難が待っているかはわからない。
これまでの経験値ではうまく対処できないこともあるかもしれない。しかし、山根はそれを楽しむつもりでいる。
2018年11月16日 東洋経済オンライン掲載
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23歳の「野球エリート」が大学卒業後に描く夢
日本一になった山根佑太がバットを置いた訳
山根佑太という名前を聞いたことがある人はどれくらいいるだろうか?
2013年春のセンバツ甲子園で優勝した浦和学院のキャプテン、立教大学入学後は4年春に全日本大学野球選手権で日本一になった男だ。だが、2018年春の大学卒業と同時にバットを置いた。エリート野球道を歩み続けた男はなぜ野球をやめたのか?『プロ野球を選ばなかった怪物たち』では山根の今に迫った。
野球部のある高校は全国に3700校以上もある。2018年夏、甲子園に足を踏み入れられたのは56校だけだ(記念大会以外は49校)。確率にすればわずか1.5パーセント。どれだけ実力のあるメンバーがそろっても、百戦錬磨の監督が采配を振っても、途方もない数字であることに違いはない。
だから、プロ野球で活躍するスーパースターのなかには、高校時代に甲子園に出ることができなかった選手がたくさんいる。甲子園出場が夢で終わった球児の多くは、山根佑太の実績を見てジェラシーを覚えるはずだ。
2012年、二年生の春に、浦和学院(埼玉)の外野手として初めて甲子園に立ち、三年夏まで4回連続で出場している。出場できる可能性のある5回のうち4度、憧れの舞台でプレイした。二年春は3回戦で大阪桐蔭(大阪)に敗れたもののベスト8に進出、夏も3回戦まで進んだ。
三年春のセンバツはキャプテンとして全国制覇に貢献。決勝で済美(愛媛)の安樂智大(現東北楽天ゴールデンイーグルス)を打ち崩した。最後の夏は1回戦で仙台育英(宮城)に敗れたものの、10対11の激闘を展開している。
甲子園の通算成績は49打数20安打(打率4割0分8厘)、16打点。甲子園で持ち前の打棒を十二分に発揮し、9個の勝利を積み重ねていった。
立教大学入学後、四年の春にはクリーンナップに座り、18年ぶりの東京六大学リーグ優勝を手繰り寄せ、続く全日本大学野球選手権では59年ぶりの日本一にものぼりつめた。その春の活躍は目覚ましく、打率2割7分7厘、4本塁打、7打点を記録し、ベストナインに輝いた。秋のリーグ戦でも2本塁打を放っている。
★大学卒業後にプロに行ける可能性もあった
身長180センチ、体重77キロの恵まれた体格、一発長打を秘めた豪快な打棒、読みの鋭さは、さらなる「伸びしろ」を感じさせた。日本のプロ野球で右打ちの大砲が不足していることを考えると、プロ志望届を提出すればドラフト会議で指名される可能性もあっただろう。勝負強さとスケールの大きさは、ほかの選手にはないものだった。
しかし、山根は大学卒業と同時にバットを置いた。社会人野球でもプレイしていない。
数々の栄光に包まれた野球人生は静かに幕を閉じたのだ。
東京六大学を代表するスラッガーは、なぜ野球の世界に別れを告げたのか?
★常にレギュラーだった男がぶつかった壁
山根が高校卒業後に進学先として選んだ立教大学野球部は東京六大学の名門のひとつだが、1999年を最後にリーグ優勝から遠ざかっていた。
「立教大学は自由な雰囲気があって、上下関係もありませんでした。先輩を『まっちゃん』と呼ぶような。浦学で1学年上だった佐藤拓也さんには、『外野手がいないから、一年生から試合に出るチャンスはあるよ』と言われたのですが……」
しかし、大学では思うような結果が残せない。自由な校風の立教大学だから、ライバルであるはずの上級生も目をかけてくれた。「頑張れよ」と声をかけてくれる人もいた。しかし、山根のバットから快音が聞かれることはなかった。
「金属バットから木製に変わった影響はありませんでした。高校時代は練習で竹バットを使っていたので。でも、それまでのように打てなくて……ずっと歯がゆい思いをしていました」
それでも期待の新人だけにチャンスは巡ってくる。一年春のリーグ戦からベンチに入ったものの、結果は残せなかった。3年間で22打数2安打、打率は1割にも満たなかった。
「甲子園優勝チームのキャプテンということで、期待度が相当上がっていましたね。でも、もともと僕の能力が飛び抜けていたわけではありません。野球は個人競技じゃない。あの大会では、エースの小島和哉(早稲田大学。ドラフト3位で千葉ロッテマリーンズへ)が抑えて、みんなが打ったから勝てたわけです。たまたま僕がキャプテンだったというだけなのに……ハードルが上がり切っていて、膨れ上がった期待に応えようと、もがきにもがいた3年間でした」
鳴り物入りで入学してきただけに、成績を残せなければ肩身は狭い。風当たりは強くなり、自分を誹謗中傷する「声なき声」が聞こえてきた。
「ちょっと打てないと『あの山根はダメだ』となりますよね。『インターネットでこんなこと書いてあるの見つけたよ』とわざわざ教えてくる人もいました。そういうのがうざったかったし、悔しかった」
★誰のために野球をやっているのか分からなくなった
山根に期待したのは関係者だけではない。当然、両親は高校時代と同じような活躍を求めていた。
「そんなときに思っちゃったんですよね。『何のために、誰のために野球をやってるんだろう』って」
仲間とただ楽しくプレイした先にいつも勝利があった。だからこそ、厳しい練習も苦にならなかった。
ずっと目の前の試合に勝つことだけを考えていたのに。
★負のスパイラルにはまっていた山根
「状況を変えないと……打たなきゃ……と、そればかりでした。力が入れば入るほどうまくいかなくなる。完全に負のスパイラルにはまってしまいました」
悩みに悩んだ末に、山根はひとつの結論にたどりついた。
「大学で野球をやめよう」
そう決意したのだ。
それから、まわりの評価は一切気にならなくなった。もう「何かのために」野球をする必要はない。あと1年、大好きな野球をやり切ろう。気持ちが固まった瞬間に、肩が軽くなった。
「昔みたいに思い切ってバットを振れるようになったのは、それからですね。もう打てても打てなくてもいい。結果を出せなくても関係ない。試合を楽しもうと思えました」
四年生の春、山根は変わった。
チャンスで試合の流れを変える一発を放ち、1999年以来ずっと優勝から遠ざかっていたチームに勢いをつけた。山根が放った4本のホームランのうち、1本でも不発に終わっていたら、立教大学の今世紀初めての優勝はなかったかもしれない。
「あのシーズンは本当に気持ちよかった。技術的にはそれまでと何も変わっていません。違ったのは気持ちだけです」
もちろん、レベルの高い東京六大学のピッチャーを相手に、気持ちだけで打てるはずがない。もともと備わっていた「体」と「技」に、最後に「心」が追いついたのだ。
それまで「あと1勝」で逃し続けていた立教大学の優勝に、地元の池袋は沸いた。東京六大学王者として臨んだ全日本大学野球選手権で、各地の代表を撃破して59年ぶりの日本一に輝いたことで騒ぎはさらに大きくなった。
★向上心もなしに野球は続けられない
当然、山根を見るまわりの目は大きく変化した。ところが、本人は浮かれることもなく、自己評価も変えなかった。「大学で野球をやめる」という決意は少しも揺るがなかった。
「プロ野球でやってやろうという色気は全然なかったですね。もしプロに入ったとしても、長くは活躍できないだろうと客観的に自分を見ていました。立教大学の1年先輩の田中和基さん(現東北楽天ゴールデンイーグルス)くらいの身体能力があったら、『プロに行く』と言ったかもしれません。僕は足がそこまで速くないし、肩も強くない。四年のシーズンにちょっと打っただけ。それで『プロだ、プロだ』って騒ぐほうがおかしい。
和基さんは大学で結果を残さなかったとしても、プロに求められた選手だと思います。足は速いし、驚くほど肩は強いし、当たればどこまでも打球が飛んでいく。そういう人がプロに行くんだと思います」
続く