無季俳句
名もなき人@管理者 / 2024-03-25 14:15:00 No.161
 「浜風句会」は、有富光英先生が主宰する俳句結社「白」に所属する句会だが、その有富光英先生が2001年に著した「俳句の言葉」と題する本がある。
 その中に「無季・無季俳句」という項目があって、大変興味深い事を書かれている(この本の多くが興味深いのだが、とりわけこの項は興味を引いた)。
 その項の最後の方に「有季・無季の論争は定型・自由律論争とともに、俳句の根幹にかかわることでありながら、いまだに結論がでていない」とし、最後に筆者(光英先生)は「”季語を入れた十七文字の定型詩を俳句と呼ぶ”という立場である」と結んでいる。
 私もこの主張に大賛成だ。物事には全て「ばらつき」があるので、多少の字足らずや字余りは認めるとしても「破調が効いている」とか「この句は季語なくても優れている句だ」との評価や「自由律」は俳句の定義から外れて「俳句もどき」等と呼ぶべきだとおもう。
 かつて、白300号記念レセプションでのクイズで紹介したが青木比君楼の「俳句」に「いろ」「かほ」という2文字の俳句もあれば、季語だけで20音の季語もあるのだから、それらを「俳句」の概念で包摂するなら「俳句はなんでもあり」なんだということになってしまう。
 もっとも、では季語とは何かということになるとこれもまた曖昧な概念で「歳時記に載っている季節の特性を表す用語」と説明するにしても、では「歳時記は誰が作るのか、どこかの権威ある機関が認定して取り入れられるのか」となると、これも曖昧であるし、風習や気候変動で季語がその季節に合わなくなっているとか、地理的条件で同じ季語でも季節感が異なるものもあり、俳句の定義も、季語の定義も極めてあいまいだということになる。
 まあ、そのような四角四面の議論はやめて、自由に楽しくやろうというのが「浜風句会」の魅力なのかも。
                                田 友作
 

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