取手二と吉田とデーブ
豪快 / 2025-09-02 19:34:16 No.11849
ユーチューブの動画です

デーブと優勝の取手二って同学年だったんですね


吉田が木内監督のことを木内と呼び捨てにしてます
よっぽどその当時の取手二は荒くれぞろいだったんですね

こういう荒くれを甲子園で優勝したことないから学法石川の佐々木監督は仙台育英のあまっちょろい環境で主導権とれないんでしょう

荒地に畑を耕すくらいの気持ちがないと名将にはなれないんでしょう

ミラクル3◆58d95f / 2025-09-02 20:04:05 No.11850
 こんばんは、豪快さん。

 動画のご紹介、ありがとうございます。

 大久保が取手二の面々と同学年ということは知っていました。84年は茨城において取手二が無双していましたので、大久保の水戸商はノーチャンスでした。

 吉田元選手が木内監督のことを呼び捨てにしているのですか。当時のメンバーは悪ガキばかりで、誰も木内監督のことをリスペクトしていなかったと思います。

 佐々木監督が仙台育英の監督をしていた時代は既に仙台育英は荒くれは少なかったと思われます。

 木内監督のような破天荒な人物でないと荒くれ達を操縦できなかったことは確かでしょうね。

 それでは、この辺で失礼します。84年の取手二も伝説のチームだと思っています。

名無し◆050967 / 2025-09-02 21:28:23 No.11851
ミラクル3様、豪快様、こんばんは。

ベースボールマガジン社発行の高校野球年代別シリーズ1980年代編に、84年の取手二の正捕手、中島のインタビューが載っています。その中で中島は木内監督について、『木内さんの手のひらの上で踊らされていたということに、選手は大体後から気づくんですよ。でも不思議と、それでも憎めないんですよね。』と語っています。これがどういうことかというと、試合中では笑顔を絶やさない木内監督も、練習は厳しいし、練習試合でも怒鳴り散らしていたそうです。結果が出ない選手は2ストライクからでも代打を送り、背番号やベンチ入りメンバーも大会毎にコロコロ変えていたそうです。そして選抜、春の県大会、春の関東大会でそれぞれ優勝できなかった事で木内監督の言葉が荒れ始め、3年生が練習を2週間ボイコット。これは最終的に双方の腹を割った話し合いで解決したそうなのですが、6月24日あまりにも有名なPL13−0取手二の練習試合。そんな状況からチームは桑田の『これが茨城県No. 1のチームなんですか』という言葉にも奮起し甲子園優勝。(ただこれも中島は木内監督の差金だと思っているそうです。)

取手二の中島といえば決勝戦の決勝ツーランとバント処理ですね。あのバント処理はあそこで中島が2塁に投げていなければ続く清原、桑田に打たれサヨナラ負けしていたような気がします。あの試合で私が最も印象に残るのは9回の清水哲の同点ホームランです。あの当たりが出た瞬間行けーと絶叫しました。(私はPLのファンでした。)私はこの試合が決勝戦史上最高の激闘だと思っています。こんな決勝がまた見たいですね。

ミラクル3◆58d95f / 2025-09-02 23:16:48 No.11852
 こんばんは、名無しさん。

 私が知らないエピソードを教えて下さり、ありがとうございます。

 木内監督が実は厳しかったということは知っていましたけど、そこまでとは知りませんでした。

 木内監督が荒れたのはわかります。「神が与えてくれた一生に一度のチーム」が結果を出せなかったわけですから。

 84年の甲子園では、チームで最もいいバッターだった桑原選手を初戦の箕島戦で、相手が右ピッチャーだったのに7番に置きました。次の福岡大大濠戦では八野投手がアンダーハンドだったことで4番に据えたと記憶しています。この辺も木内マジックの一環だったですね。

 PL13-取手二は、取手二を打倒PLの候補の1つと見ていた私には衝撃的な結果でした。夏の茨城予選では大味な試合が多かったですし、PL戦以前に、箕島に勝ち目がないと思っていたしだいです。

 中島選手で最も印象に残っているプレーは、延長戦の決勝ホームランではなく、9回裏のバント処理です。

 私もセカンドで松本選手を刺していなければ、清原選手か桑田選手にサヨナラ打を打たれていたと思います。ランナーが1塁だったことで、清原選手は中途半端なスイングで三振し、桑田選手は力み返ってサードゴロに終わりました。

 9回裏の清水哲選手の同点ホームランがあの試合のハイライトでした。打たれた瞬間、アンチPLだった私は逆絶叫マシーンになったものです。

 PL-取手二は正に史上最高の決勝戦でしたね。PLびいきの植草アナが完全にイッていました。

 それでは、この辺で失礼します。PL-取手二は何度見ても飽きない試合です。

豪快 / 2025-09-03 20:35:22 No.11853
こんばんは

そういえば決勝の解説した植草さんはまだ存命で御年92歳だそうです。
長生きですね。

PLは全国から有名選手を集めた学校だったのに対し、取手二は地元のそこらへんにいる不良少年たちでPLに勝つんですからミラクルを超えたミラクルですよね。

それでも木内監督の奇跡的な采配で勝つわけですから普通監督を尊敬するはずです。

愛甲は渡辺監督は野球を教わるというよりも人としてどういきるべきかを教わったそうでユーチューブ見ると慕ってるようにも思えました。少なくとも取手二の選手のように監督を呼び捨てにはしないです。

豪快 / 2025-09-03 21:06:48 No.11854
さらにデーブのユーチューブ見ましたが、取手二ナインは木内監督のサインにも従わず勝手に盗塁、エンドランしてたみたいですね。全然監督リスペクトせず自由きままな不良生徒だったみたいです。
でも木内監督は暴力は振っていたらしく吉田だけが暴力振られなかったみたいです

白道 / 2025-09-03 22:07:40 No.11855
横からスイマセン。
WBSCしかり、ここのところ7回制のことばかり気になって、気が滅入っております。内容が辛らつになることご容赦願います。

さて、木内さんの話題が出ています。悪い癖で一方的になるかもしれませんが、良い機会なので振り返り議論できたらと、また7回制や勝利至上主義、私学の台頭についても併せて話せたらと勝手に思っています。
まぁこの入りですから、木内さん下げになるわけですが・・・・。

先に良い部分を挙げると、
 「木内さんの手のひらの上で踊らされていたということに、選手は大体後から気づく」
このあたりはいかにもって感じですね。箕島に勝った直後、選手を須磨へ泳ぎに連れて行ったりもしてます。

取手二時代の木内さんは清貧という言葉の似合う方でした。高校や後援会からほとんど金を受け取らず、見かねて学校側が用務員の職を用意したほど。これは昭和のアマ野球界の美談の一つではないでしょうか。PLを破っての優勝直後、メディアが木内さんの自宅に押し寄せたところ、アパートだったか団地だったかで、違う意味で驚かせたそうです。

木内さんを語るうえで私が違和感を感じたのは、”嘘も百回言えば本当になるんだ” というようなことを選手に平然と言う点ですね。“百回言えば”、だったか “しらを切り通せば”、だったか細かい表現は忘れましたが。
確かに世の中そういう部分はあります。実社会はそれで溢れてもいますし、国と国とのやりとりですらそうです。でも、それを球児たちに教える必要があるのか。腐っても高校教師だった蔦さんあたりはしないだろうな、そう思ったものです。

本人は慶応に受かったが一度も通わなかったから退学になった、と語っています。木内さんの指導を受けた安藤統男氏に言わせると、そのあたりはかなり曖昧になります。ただそういった部分も込みで、「憎めないんですよね」となるのでしょう。今なら学歴詐称とかでひと揉めしそうです。

白道 / 2025-09-03 22:16:10 No.11856
長くなりそうですが続けます。

常総への監督就任ですが、実は当初は83年の予定でした。ところが「神が与えてくれた一生に一度のチーム」への未練断ちがたく、もう一年待って欲しいと泣きついています。
それが通るのだからこれまた憎めな(以下略。

少し話は横に逸れますが、鍛治舎さんが去年の秋、今年のチームに手ごたえを感じたからこそ譲った、みたいなことを言っています。嘘を言うなと(性格が悪くてスイマセン)。
実際、県岐商は新チーム結成時は評価が高くはなかった。夏の大会前ですら同様でした。
捕手の小鎗は急造だし、投手は二年ばっかり。高校野球の監督なんてものは、これと思ったチームを易々と手放すわけががない。木内さんがそれを証明しています。

木内さんに話を戻します。
木内さんは裕福な家庭に育った点では蔦さんや尾藤さん鶴岡さんと同じ。ですが上手く言えないのですが、山師というか職人というか、ともかく一癖も二癖もある変わった方でした。少なくとも教育者ではなかった。
その癖のある点が、昭和後期から平成以降の強豪校の監督たちのトレンド(教職を取る、もしくはすでに持っている)とは一線を画している気がしました。でもそれこそが木内さんの味なのでしょうね。

 「あの試合で、尾藤さんと木内さんが入れ替わった」
これは中島だったか吉田だったか。誰が言ったか忘れましたが、とにかくわれわれオタも含め、勝負事の怖さを知らしめてくれました。

木内さんが最後に采配を振った2011年。御年八十歳。箕島があの試合の終盤の3イニングを上手く乗り切っていたらと、それができていれば、尾藤さんは一回り下ですから、今世紀に入ってからも、そのユニフォーム姿を甲子園で観れたのではないか、箕島側の人間にすれば木内さんはつくづく怨嵯の対象となるわけです。

白道 / 2025-09-03 22:27:28 No.11857
勝手な妄想ですが、私は甲子園には女神がいて、まず最初原貢さんに憑いて(若かりし頃の原氏は萬屋錦之助ばりの二枚目)、70年の夏の甲子園でなぜかPLに移り、79年の春の箕島戦で尾藤さんへと乗り替え、そしてあの84年、運命の取手二との勝負になるわけです。
木内さんの以降の甲子園での活躍ぶりを目にするにつけ、ああやっぱりまだ木内さんのところに勝利の女神はいるんだな、そう思ったものです。

ただどうも常総木内の試合は、その人柄と反比例するように味がない。私のような名勝負オタから言わせれば、木内さんは勝利の女神を飼い殺しにしている、そう思えるほど。
また選手もプロで通用したのは仁志ぐらいでしょうか。常総はひと頃、水戸商や土浦日大、遠くは銚子商の関係者までが嘆くぐらい選手を集めていたというのに。
一方、尾藤さんの残像なら、いまだに吉井の白髪頭を眺めることで感ぜられます。

最後になりますが木内さんの最も困ったところを。
それは、
 「結果が出ない選手は2ストライクからでも代打を送り、背番号やベンチ入りメンバーも大会毎にコロコロ変えていた」
まさにこれ。
特に三年の控えに厳しく、ダメだと思うと平気で見切りをつけて、春でも二年生主体に切り替えてしまう。
しかして、
 「練習は厳しいし、練習試合でも怒鳴り散らしていた」
これはわかる。
最近でも近江の多賀さんは凄かったし、作新の小針さんなんか(以下自粛
選手に対する愛情が根底にあるのならば厳しさも理解できる。だけど夏を待たずに三年生を窓際へと追いやるあのやり方はどうなのか。私が甘いせいかもしれませんが、チームの底力は三年生で決まると捉えているので見るに堪えませんでした。仮にその先に勝利があるとしても、”勝てば官軍” が高校野球に馴染むとは思えないのです。

更に困ったことに、木内さんの選手の人心掌握のやり口を、前田某などがそのまんま真似てしまった。あまつさえ高嶋さんまで同じようなことをやり出す。
90年~05年ごろまで、木内、前田、高嶋、それと永遠のヒール馬淵、この四人でどれだけ甲子園で勝ったか。まさに暗黒期。

蔦池田の身体を鍛え金属バットを振り回す野球と、取手二木内の三年生への見切りを早くつけて新チームの経験を高め来年に備える野球。そのいずれもが、実は公立校がやり始めたというのは、皮肉以外の何ものでもありません。

白道 / 2025-09-03 22:37:30 No.11858
木内さんの選手の扱い方で勝利を重ねても、名勝負が生まれるわけなど そもそもないのですよね、気付くのが遅すぎました。

本当の最後になります、というかこれで最後にします。
平成の高校野球は常総、大阪桐蔭、智辯和歌山、桐生一、神村、遊学館、済美などなど、新興私立校がその名を高めるために、勝利至上主義へ走り過ぎた感がします。
その歪みが、結果として7回制を生んだと言えないか?

7回制はその反論に対し掲げる大義名分の一つとして、選手への負荷軽減が間違いなく担保されています。
しかし極端な話、選手を7回でターンオーバーさせれば、今のまま9回まで試合を続けても、選手の負荷は軽減でき、完壁な暑さ対策にもなる。
何のために元々14人だったベンチ入りメンバーを、15→16→18→20と増やし続けたか?(ちなみに7回制になっても20人なんですかね?)

昭和の高校野球では、初戦で三点差ぐらいまでのビハインドなら、最終回、二人はベンチのメンバーを打席に立たせたものです。内野ゴロからヘッドスライディングは風物詩でもあった。
監督も選手も勝利以上のものが甲子園にはある、ぼんやりとかもしれないがそこへの理解を汲み取ろうとする余地があった。

 平成になりそれはすっかりと消え去った。
 どこで誰が消した・・・・?

令和に入りコロナもあって、勝利以外にも高校野球にはいろいろとあるはずだよね、となりかけた矢先の7回制強行。
間答無用でその議論に蓋をした気がする残暑厳しい九月の夜です。

ミラクル3◆58d95f / 2025-09-03 22:53:50 No.11859
 こんばんは、豪快さん。

 植草アナは98年に高校野球の実況から退きました。それから27年ですか。長生きですね。

 84年の取手二は正に奇跡のチームでした。絶対王者のPLに、まさに地元のそこらへんにいる不良少年達で勝ったのですから。

 あの9回裏の継投策には吉田選手も、「あれは良かったですね」と言っていました。

 愛甲選手は渡辺監督を一生の恩人だと思っていると聞きました。渡辺監督でなかったら中退して裏世界の人間になっていたかもしれません。

 それでは、この辺で失礼します。YouTubeの愛甲チャンネルはたまに見ます。

ミラクル3◆58d95f / 2025-09-03 22:58:20 No.11860
 こんばんは、豪快さん。

 すいません、大久保はどうにも好きになれず、大久保のYouTubeは見たことがないです。

 取手二ナインは勝手に盗塁やエンドランをしていたのですか。それで粗い野球だったことが腑に落ちしました。

 当時は監督の暴力は普通でしたから…。吉田選手だけが暴力を受けなかった理由はナゾですね。

 それでは、この辺で失礼します。取手二からプロ入りしたのは2人だけでした。

ミラクル3◆58d95f / 2025-09-03 23:07:04 No.11861
 こんばんは、白道さん。

 WBCの放送はとんでもないことになりましたが、7回制だけはあってはならないです。

 箕島に勝ったあと、海水浴に連れて行ったことは聞いたことがあります。完全な負け試合をひっくり返したわけですから、アメをしゃぶらせたわけですね。

 木内元監督がお金に頓着していなかったことを知っていましたが、そこまでとは知りませんでした。常総学院の監督になって、貧乏生活ではなくなったと思います。

 「嘘も百回言えば本当になるんだ」というのは、無垢な球児には言ってはならないことですね。そうしたことからも木内監督は毀誉褒貶が激しい人物でした。

 木内監督が慶応に受かったというのは眉唾ですね。慶応は野球が上手いだけでは入学できなかったですから。

 それでは、一旦、失礼します。

ミラクル3◆58d95f / 2025-09-03 23:25:46 No.11862
 こんばんは、白道さん。

 常総学院の監督就任は、当初は83年だったのですか。それは初耳です。

 「神が与えてくれた一生に一度のチーム」は84年のチームですから、1年待ってもらったわけですね。「神が与えてくれた一生に一度のチーム」は蓋し名言だと思ったものです。

 鍛治舎氏は曲者ですから…。横浜を破ったチームは自分が育てたと吹聴しているのは、如何にも鍛治舎氏らいいです。うるさ型のOBから監督の座から引きずり降ろされたのではないでしょうか? 

 木内元監督は裕福な家庭に育ったのですが。さすがにお詳しいですね。

 癖だらけの木内元監督ですけど、仁志元選手とは不思議と馬が合って、仁志元選は木内監督がどういう人物だったかを書いた本を出しています。もっとも、仁志元s年主も強烈なキャラクターの持ち主でしたけど。

 PLとの一戦は、誰もがPLが勝つと思っていたはずです。「神が与えてくれた一生に一度のチーム」と自負していた木内監督も、「とても勝てる相手ではねぇな」と負けを覚悟していたそうです。

 箕島は自滅という形で取手二に敗れました。攻めては拙攻の連続で3点止まり、守ってはエラーの連発で8回に5失点したのですから。

 木内元監督と尾藤元監督は1回り違いでしたか。、もっと離れていると思っていました。

 84年の箕島は、箕島最後の甲子園で優勝を狙えるチームでした。取手二戦に勝っていれば、多くのことが変わっていたはずです。

 それでは、一旦、失礼します。

ミラクル3◆58d95f / 2025-09-03 23:43:09 No.11863
 こんばんは、白道さん。

 私も甲子園には女神がいると思っています。79年の箕島の春夏連覇で、その思いを強くしました。

 常総学院時代の木内監督は、「策士、策に溺れる」といった試合が多かったように思います。それでも2001年の選抜大会と2003年の夏の大会で優勝していますけど。

 私は、常総学院時代の木内監督の一番の名勝負は2001年の選抜大会の関西創価戦だと思っています。また会心の勝利は、1993年の近大付戦ではなかったのではないでしょうか。

 木内元監督の教え子でプロで成功したのは仁志選手くらいですね。島田投手も成功とはいえなかったですし。

 その点、尾藤監督は東尾投手、吉井投手と、プロで大成した投手を育てましたね。

 木内元監督が結果が出ない選手に厳しいというのは2001年の選抜大会で実感しました。1番を任せていた大崎選手に対してそうでした。

 3年生を見切って2年生を中心にするチームするという監督がそんなにいるのですか。帝京の前田前監督もそうでした。東東京大会の予選を見ていて、「非情な監督だな」と何回も思ったものです。

 なるほど。その4人はヒールですか。名監督と言われる監督がヒールだというのは確かですね。

 言われていますと、金属バットを振り回す野球と3年生切り捨ての先鞭をつけたのは公立校の監督ですね。高野連の公立校びいきは何だったのでしょうか?

 それでは、一旦、失礼します。

ミラクル3◆58d95f / 2025-09-03 23:51:18 No.11864
 こんばんは、白道さん。

 なるほど。勝利至上主義へ走り過ぎが結果として7回制を生んだわけですね。

 確かに、7回で選手をターンオーバーさせれば、9回でも何の問題はないですね。もっとも、それが出来るのは、層の厚い私学強豪だけですが。

 7回制になってもベンチ入りが20人というのは、完全に矛盾していますよね。DH制との整合選も取れませんし。

 言われてみますと、内野ゴロからヘッドスライディングは最近ではあまり見なくなりましたね。監督がそう指導しているのでしょうか?

 白道さんも7回制は規定路線だと思われているのですね。私もです。7回制になったら、高校野球を観なくなると思います。高校野球でなくなるのですから。

 それでは、この辺で失礼します。短文になって、すいません。

豪快 / 2025-09-04 20:49:34 No.11866
こんばんは

木内監督の教え子では日ハムにいた金子が1億円プレーヤーになってるそうです。
それくらいでしょうか。木内監督の教え子で大勢したのは

豪快 / 2025-09-04 21:26:29 No.11867
それと優勝時の取手二は女子生徒の割合が7割だったそうです。よくそれで勝てたものですね
茨城では一高が男子校、二高が女子高みたいです

ミラクル3◆58d95f / 2025-09-04 22:31:16 No.11869
 こんばんは、豪快さん。

 金子選手のことを失念していました。金子選手は、根本選手、倉投手とともに1993年のチームの中心選手でした。

 優勝時の取手二の応援液は女子高生で埋まっていました。あるチームの応援曲ばかりで辟易した思い出があります。

 茨城の公立校は、そういう制度だったのですね。現在は公立校の男子校、女子校が随分と減りました。
 
 それでは、この辺で失礼します。男子校の浦和高校が共学化するかどうかで揉めているそうです。

白道 / 2025-09-04 22:53:46 No.11870
ミラクル3さま

毎度、愚痴と恨み節にお付き合いいただき痛み入ります。
真剣に7回制阻止に向け、何か起こせないものでしょうか?
腹が立つやら情けないやら。高野連の無軌道ぶりになんとか喝を入れたいところです。


豪快さま
金子がいましたね。大型セカンドで、成績優秀。普通に受験すれば東大も、などとゲンダイに書かれていました。忘れていました、スイマセン。

あの年は関東にショートの逸材が多くて、大宮東の平尾、修徳の玉木、横浜商大の斎藤を三羽烏と称し、ショートの当たり年などと言われていました。
ところが蓋を開けると、セカンドを守っていた金子が三人を出し抜き、元投手の松井稼もショートであっさりレギュラーを獲りMVP、さらに亜細亜経由で堀越の井端もすぐに頭角を現しました。ところがあの三人はというと・・・・。

当時東京に住んでいたので、何度か彼らを見ていたのですが、私の評価は、斎藤≧平尾>玉木>金子>>>井端、そんな感じでした。われながら甘かったと反省しております。

金子の同期に根本というスラッガーがおりまして、常総的には当時の面子が一番スケールも才能もあった気がしますね。金子は千葉から引っこ抜いて、根本も争奪戦の末に常総に入ったと記憶しています。
根本は上でやれる素材と思っていたので、なぜ彼をプロに送り込めなかったのか、このあたりに木内さんの育成手腕の限界を垣間見た気がいたします。

ご指摘ありがとうございます。

ミラクル3◆58d95f / 2025-09-05 21:09:10 No.11871
 こんばんは、 白道さん。

 こちらこそ、書き込みいただきまして、ありがとうございます。

 私も7回制阻止に向けて行動を起こさねばならないと思っています。私がデジタルに長けていればネットで反対署名活動を起こすのですが…。

 高野連の無軌道ぶりには心底腹が立ちます。ここ数年で高校野球のあり方が大きく劣化しました。

 93年は関東にショートの逸材が多かったですね。大宮東の平尾選手はプロでもっと活躍すると思っていたのですが。

 93年の常総学院は、3番・金子、4番・根本という並びだったと記憶しています。夏は2回戦で近大付、3回戦で鹿児島商工と当たり、鹿児島商工戦は再戦となったことで倉投手が疲弊してしまい、準決勝まで進むのが精一杯でした。

 それでは、この辺で失礼します。93年当時のその都度抽選は球趣がありましたね。

豪快 / 2025-09-06 12:19:27 No.11872
こんにちは
93年の常総学院も木内監督の自信作だったみたいですね。ただ優勝はできませんでした。しかもその翌年のチームが決勝に行くことになりますし

木内監督は采配が当たるときとそうでない時がありますね
2001年のチームは選抜で優勝しますが夏は早々敗退です

また木内監督はプロ注目の選手を連れてくるって感じではないですね

ミラクル3◆58d95f / 2025-09-06 19:20:43 No.11873
 こんばんは、豪快さん。

 木内監督からすれば、93年の常総学院は、87年のチームよりも自信があったようです。87年のチームは小粒でしたから。

 木内監督は、「策士、策に溺れる」ことがしばしばありました。93年の夏は打順変更が裏目に出ました。

 木内監督はあまりスカウト活動はしなかったみたいですね。地元出身者が多かったように思います。

 それでは、この辺で失礼します。03年の常総学院は強かったですね。

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